1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人〜300人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。
大学2年生から3年生、私は、浪人生活を経てますので。20歳21歳のまさしく、“世間的には大人”になる年齢です。
しかしながら、まだその感覚は全くなく、いわゆる青春時代を謳歌していました。
何でもお手伝いセンターという、「依頼があれば、法律に触れること以外は基本やります」という姿勢でしたので、「?」と思うような依頼も多々ありました。
見も知らぬ人の披露宴で「盛り上げるアトラクションを何かして欲しい」・・・・・
結局、一世風靡セピアの「前略、道の上より」を褌締めてやったこと。
バク宙をやって盛り上がったのを思い出します。
他には、当時吉本花月が、梅田・難波・京都とあり、新喜劇の出し物が順番に各花月でありましたので、
その出し物の大道具(机、椅子、植木など)や小道具を次の花月へ運んだものです。
吉本新喜劇は何度も無くなりそうな憂き目にあっていましたので、予算も限られたんでしょうか・・・
「新喜劇の大道具」の運搬は思い出深い仕事の一つです。
中には、いわゆる美味しい仕事もありました。
その頃、大鳴門橋が開通し、淡路島が結構注目されていました。なので、ペンションなどもたくさんあり、大阪・神戸・京都から、若い観光客を呼び込もうと結構取材があったそうです。
ある新聞社の『淡路島のペンション体験紹介コーナー』に「仕事」で参加させて頂きました。
美味しい料理を食べて、温泉に入って、素敵な部屋で過ごす「仕事」です。我々がモデルです。
今尚、あの取材は本当に良かったのかどうかは、不明ですが・・・・
当時、そんな「淡路島」で開催されていたのが、『くにうみの祭典』(1985年4月21日〜8月31日)です。
淡路島は関西人にとっては、近くでありながら、夏場はなかなか行けない島でした。
夏休みは、フェリーで何十時間待ちが当たり前の状態でした。
なので、大鳴門橋が開通したとは言え、大阪からはやはり船です。
この時期は、船で行く「くにうみの祭典」ということで、船上ラジオ公開放送など、実に様々なイベントを船を活用し開催されていました。
我々は、スタッフとして、参加させていただきました。
その後、瀬戸大橋、明石海峡大橋、しまなみ海道など、橋が完成するごとに、博覧会が開催されていきます。
JAPAN EXPOなど世はバブルとともに博覧会ブームが到来していきます。
我々も、それが大きな荒波だと気づかずに、巻き込まれていきます。

 

 

今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。

高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。

固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。

あるのは、ただそれだけです。

 

インターネットも携帯電話もない時代です。

情報自体に価値があった時代です。

電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。

 

まず、我々がやったのは、

そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。

大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・

20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。

アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。

ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。

4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。

 

 

そして、電話が鳴りました。

「何でもお手伝いセンターです。」

「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。

油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。

なんせ、初めてのミッションです。

私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。

タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。

「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。

今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。

ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。

2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。

効率的と言えば効率的です。

「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。

戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」

とんぼがえりです。

スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。

まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。

最初のミッションから波乱万丈でしたが、
この後、「何でも屋さん」は2年余りの活動期間でしたが、
幕開けは「換気扇洗い・蓋落っこちた事件」から、でした。
何でもお手伝いセンターを始めて、2ケ月くらい経った頃だろうか、1984年・大学2回生の夏休みだったと思います。
イベントの制作会社から、若者を20〜30人手配して欲しいと言う依頼がありました。
その頃は人材派遣会社も一般的ではなかった頃です。パソナがまだテンポラリーセンターと呼ばれていた時代です。
何でもお手伝いセンターは、大学生を中心に若者の集団です。
友人の友人に会員登録してもらって、アルバイトを斡旋する仕組みが出来つつありました。
登録料など不要です。アルバイト斡旋に、ディスコパーティなどを企画していましたので、会員になることを断る理由はありません。当時は、学生主催のスキーツアーや、沖縄ツアーなど学生が主催者として、企業とタイアップしていた時代です。
イベント制作会社からの依頼で、20名ほどの若者を引き連れて行ったのが、奈良公園です。
そこで行われるのが、「高校生クイズ選手権・近畿地区大会」です。
日本テレビ系列がやっている「通称、ウルトラクイズ」の高校生版です。
我々は、そのスタッフとしてお手伝いです。
初めて、そのような現場に行ったので、難しいことはできません。テレビ局のアシスタントディレクターの指示のもと、
我々のミッションは、ロープマンです。
「YESかNOか」クイズ出題のあと、どちらかに出演者の高校生が移動します。その分けるためのロープを持ったスタッフが我々です。経験値は要りません。
しかしながら、出演している高校生の真剣な姿や、その姿をカメラで追いかけるテレビクルーなどを側で見るにつけ、イベントの面白さに、興味を持ったことは確かです。
そして、その後、毎回スタッフとして呼ばれることになります。
ロープマンから、受付スタッフ、そしてフロアーアシスタントディレクターと、徐々に、役割も出世して行きました。
ディレクターさんと一緒にマニュアルを作ることもありました。
そのころは、すべて手書きですが・・・・・・(笑
そのように、「何でもお手伝いセンター」には、実に様々な「助けて」依頼が舞い込んできます。
プレス工場のベルトコンベアのスプレー缶を収納するアルバイト、牛乳配達、オーディコロンのデモ販売、アイドルタレントのミニライブの警備、自転車競技のコースに立つ警備スタッフ、ライブハウスツアーの運転手兼アシスタント、吉本新喜劇の大道具運搬、ラジオ芝居の出演、獅子舞の中に入って踊るなんてこともやりました。
また、同時に、ディスコパーティや、バーベキューパーティ、沖縄ツアーなど「遊びの企画」もやっていました。
その後、イベントの裏方スタッフの面白さを知った僕は、積極的にイベントスタッフの方にシフトして行きました。
暑い夏、台風も近づいて来ています。
海や川、山での行楽は、本当に安全には気をつけて頂きたいものです。
お盆になると、小学校時代「夏休みの宿題の残りをどうするか」焦った記憶があります。
夏休みが始まった頃は、「まだまだ、休みは長い!」って・・・・
翻って、この歳になると、お盆になると「私自身のルーツ」を思います。
先祖からの長い軌跡が、今の自分の家族につながっていると考えると、
「私の祖先」はどんな人で、どんな人生を歩んでいたのだろう・・・・
父は大工、祖父は漁師と実業家、曽祖父は宮大工だったそうで、それ以前はわからないそうだ・・・・
そう考えると、不思議な軌跡は、本当に奇跡が続いているのかも知れない。
お盆くらいは、「祖先」に想いを馳せるのも良いかもしれない。
しかし、小学生の夏休みはなんであれだけ長かったのに、「アッと言う間に終わった」のだろうか・・・
今だったら、「暇で仕方ない」かもしれない。

北海道でのアルバイトが決まって、

大阪からは寝台列車・銀河で東京へ。高校時代の友人と久しぶに上野公園の西郷さんの銅像前で再会。
そして、私は、その夜、またもや寝台列車で上野から青森へ
そして1983年当時は、まだ青函連絡船でしか北海道に渡れませんでした。
函館の港が見えた時は、「北海道にやっと着いた・・・・」と感慨深いものがありました。

函館の街を観光した後は、列車で、豊頃町へ
全国からこのアルバイトに応募していた学生達が10数名いた気がします。
ジンギスカンで歓迎会をしていただき、
その後、それぞれのお世話になる「農家のオヤジさん」に引き取られるように、
三々五々、別れ、長い夏が始まりました。

私がお世話になった農家は、「牧草」を刈り取り、サイロに貯蓄していくことがメインの仕事です。
牛の餌になる牧草を冬季のために保存しておくのです。
何ヘクタールもある牧草地の牧草をトラクターで刈り取り・サイロに運ぶ作業です。
作業は力仕事で、大変でした。やはり夏です、汗だくになりながら、草まみれです。
朝、陽が昇る頃から陽が沈むまでの作業。
しかし、雨が降ると全く作業ができません。
その年は、結構雨の日が多く、そんな時は、オヤジさんが車で北海道巡りに連れて行ってくれました。
襟裳岬、阿寒湖、網走刑務所、など、本当にアルバイトに来ているのに、良いのだろうか・・・と
我々、学生アルバイトがいてるうちに、全ての作業を終える必要があるにも関わらず、です。

やはり、当時から若者は都会へ出てましたので、後継ぎ問題はその頃からの課題だった気がします。
農家には、若い力が必要です。

色々ありましたが、刺激的な1ケ月余の住み込みのアルバイトは19歳の私に貴重な体験をさせてくれました。

青く高い空、どこまでも続く大地は今も尚私の脳裏に焼き付いて離れません。

やっと、長い梅雨が明けたと思ったら、猛暑到来です。熱中症には気をつけて頂きたいものです。
8月になると思い出します。梅雨のない北海道の夏。19歳の時のことです。
1年間の浪人生活を終え、1983年4月関西大学経済学部に入学。
本来は、体育の教師を目指していましたので、福岡教育大学を第一志望にしてましたが、
当時の「共通一次試験」と「二次試験」で合格は叶わず、社会科の教員免許の取れる、関西大学に入りました。
浪人時代の辛さを考えると、社会科でも教員を目指せるならばと、入学当初、大学生生活にウキウキしたものです。
4年間の社会人になるまでのモラトリアム期間、どのように自分自身をデザインするか、体育の教師の道が閉ざされたので、
体育会系(当時器械体操をしていました)の部活に入る必要もなく、とにかく色んなことにチャレンジしよう。
と言うことで、3つのことを自分自身の約束事として決めました。
「教員免許を取る」こと、「普通自動車の免許取得」そして「北海道に行く」ことの3つは絶対叶えると決めて、
その他は、なんでもやろう!みたいな感じで、キャンパスライフが始まりました。
そして、「北海道行き」は案外早く訪れました。
単に行くだけなら、お金さえ貯めればいけるので、「それは面白くない」
当時、扇町公園の西隣に「学生相談所」なるものがありました。
そこに行けば、アルバイトを紹介してもらえるのです。
関西の大学生であれば、誰でも紹介してもらえたのではないでしょうか・・・
少し記憶が曖昧ですが、当時は、アルバイト情報誌とかが、まだ一般的じゃなかった気がします。
あっても、情報誌自体が有料だったり、人材派遣業も一般的ではなく、
大学生がアルバイトというと、「学相に行く」が定番だった気がします。
そこで、見つけたのが「夏季・酪農家アルバイト」です。
1ケ月近くの住み込みアルバイト、バイト代がもらえて、3食・寝泊まり付きです。交通費も出ます。
至れり尽くせり、と思って私はすぐに申し込みました。
酪農家のほか、昆布漁などもありましたが、私がチョイスしたのは、北海道帯広豊頃町の酪農家です。
暦の上では、今日は、二十四節気の一つ、大暑です。
しかしながら、今年は、梅雨明けが長引いており、日照不足で、
農作物など、様々なところで影響が出ています。
しかし、夏といえば、ビアガーデンです。
昨今は、料理もビッフェ形式で味もそこそこ美味しいですし、様々な工夫がなされていて、会社帰りの人たちの楽しみの一つですね。
思えば、33年前になります、あるビアガーデンで「トロピカルビアガーデン・DJステーション」というイベントを期間限定でやっていました。
当時、ビアガーデンの呼び物の一つとして、お客様のリクエストに答えて「音楽」を流すイベントです。
まだ、「歌」を持ち運ぶことが普通じゃ無い時代です。
ビールジョッキを片手に、好きな曲をリクエストしていただき、女性のディスクジョッキーが話をしながら、レコードで
音楽を流します。
曲と曲の間には、「プロ野球速報」でタイガースの途中経過をお知らせしたり、
リクエスト曲のトピックスを話したり・・・・
ビアガーデンの「お食事券」が当たるクイズをしたりと、お客様に楽しんで頂くための「DJステーション」です。
私は、フロアーアシスタントディレクターとして働いていました。大学4年の頃です。就職をどうしようか、悩んでいた頃だったと記憶しています。
「カレーチケット」をもらって、社食でカレーを食べながら、ディレクターと打合せです。
進行台本に沿って、全体の流れを理解して、「このタイミングでプロ野球速報を、ただしタイガースが負けてる時は、すぐに次の曲、そしてクイズもあまり引っ張らんと、多めに当たりが出るような問題にしよう・・・・」など
酔っぱらい相手なので、ちょっとしたことでクレームになります。特に、タイガースが負けてる時は危ない・・・・
女性のディスクジョッキーは、アナウンススクールの卵、若手だった気がします。
あの頃は、20代前半で現場を任されていたくらい、仕事がありすぎた気がします。
思えば、バブル絶頂期です。世はビアガーデンも毎夜盛況なくらい浮かれていたのでしょう。
その後、ビールの泡も弾けるような暗い失われた20年を迎えようとは、誰が想像できたでしょう・・・・
一寸先は闇、今思えば、そんな時代の華やかなイベントだったと思い出されます。
何でも屋の仕事で、「“歩こう会”と一緒に歩こう」というものがありました。
 
1985年6月、四国と淡路島が橋で結ばれました。
大鳴門橋は、後の、岡山と香川の瀬戸大橋(1988年)、明石海峡大橋(1998年)しまなみ海道(1999年)に先駆けて開通。
淡路島といえば、夏休みになると海水浴客がフェリーで渡っていたので、10時間待ちなど、長時間待ちも常態化していました。
橋が架かることでその経済効果は計り知れなかったのでは無いでしょうか・・・
その後、瀬戸内海を渡る橋が様々なルートで開通し、その度に博覧会が開催されたものです。
その話は、後日させていただきますが。
大鳴門大橋は、淡路島と徳島県を結ぶ橋、本州からはなおフェリーで渡るしかありません。
とは言え、初めて四国と淡路島が陸続きになったことは画期的な事です。
その年、淡路島では「くにうみの祭典 淡路愛ランド博覧会」という博覧会が4ケ月余り開催されました。
この博覧会は、私に大きな転機を迎えさせるのですが・・・・・・
橋や高速道路が新しく開通する直前に、記念に「歩こう会」が開催されます。開通後は、車の専用車線となりますので、
一生に、一回の歩き納めと言えるかもしれません。
全国の「歩こう会」の有志たちが集まってきます。
その時も、そうでした。
私たちは、スタッフとして参加です。「歩こう会」の方々は老若男女・様々な年齢の方がいらっしゃいます。
我々スタッフは事故のないように、一緒に歩きます。
渦潮が、真下で大きな渦を巻いていたのを昨日のことのように思い出されます。
しかし、あの当時は本当にいろんな仕事が舞い込んできたものです。
七夕の季節になると思い出します。
残念ながら、淡い恋物語などではなく、「巨大七夕購入事件」です。
今から、35年ほど前になります。
大学生の私は、友人と「何でも屋」を共同経営していました。若さだけが取り柄の「何でも屋さん」です。
友人のほか、学生連中にアルバイトを斡旋する、人材派遣業のはしりです。
ワンルームマンションに固定電話を引いて、チラシをポスティングすることから始まりました。
当時は、インターネットはもちろん携帯電話もない時代です。
情報をつかむことはそれだけでビジネスのタネを掴むようなものです。
「知っていることがノウハウ」の時代
タウンページという黄色の分厚い本しか情報源はありません。
そんな時代です。チラシのポスティングだけで、いろんな相談電話がありました。
「何でも屋さんですか?換気扇洗って欲しいんですけど・・・・」
「結婚式の披露宴の余興して欲しいんですけど・・・・」
「吉本新喜劇の大道具を運んで欲しいねんけど・・・」
などなど、個人から会社まで、実に様々な依頼が舞い込んできました。
七夕が近づいた初夏の頃です。
「平塚の巨大七夕を運んで欲しいねん」
平塚の七夕ってなんや?
聞いてみると、神奈川県平塚市で開催されている「平塚七夕まつり」(現在は湘南ひらつか七夕まつり)の巨大な七夕の飾りを運んで、大阪の商業施設に飾るらしい。その運搬の仕事です。
どういうルートで話をつけたのかはわかりませんが、「平塚七夕まつり」が終わった夜の撤去のタイミングに行って、お金支払って、引き取る仕事です。
アルバイトスタッフと2人で運転を替わりながら、平塚まで行き、無事巨大七夕を大阪へ運び終えました。
今考えると、用無しになった巨大七夕を安値で買い上げて、リユースする。
「平塚の七夕」というブランドが必要だったんだと思います。
大阪の商業施設では、その後1ケ月の夏商戦で「七夕まつり」が開催されて、大いに賑わったものです。
我々の何でも屋は、大きなビジネスモデルの隙間を埋めるような仕事が多かった気がします。
誰もやらない、やりたがらない隙間の作業。
しかし、その隙間から見た風景はキラリと光るビジネスチャンスの宝庫でもありました。
若さ故、その後、何でも屋は分裂して、終わりを告げます、2年弱の活動でしたが、そこで得た経験は今もなおビジネスチャンスのタネを見つける視点を持たせてくれています。
ちなみに、その後商業施設での「七夕まつり」
「巨大な水槽作ってな、的に当たったら、水槽に落ちる人探してんねんけど、やってくれるか!」
1ケ月、我々は、誰もやりたがらない、巨大な水槽に1日何度も落ちる羽目になりました。
あの頃は、なんも怖いものが無かった気がします・・・・・

一昨日から、秋田に仕事で出張、仕事を終えて 「きりたんぽ鍋」に舌鼓を打って、秋田の地酒が疲れた身体に沁み渡る、つかの間の休息。 地方での仕事の醍醐味の一つは、地元の郷土料理を味わえること。 今ほど、情報が開示されていない20〜30年前は、やはり地元の有志に地元の隠れた名店に連れて行ってもらったものです。逆に、関西に来られる際は、こちらが「関西の名店」を案内します。 互いに“ならではの味”を楽しんでもらうことに心血を注いだものです。 おもてなしの交換が仕事において一体感を醸成します。 些細なことですが、美味しいものを一緒に食することで、繋がる想い。 よく、業界以外の方々から、仕事のエリアを聞かれます、その際は、「全国・全世界です」と答える。 当然、支社があるわけではなく、この業界の特質が一因であるのですが・・・ 「一つのプロジェクト」を一社で創り上げることは不可能な業界。 ある式典を創り上げるには、プロデューサー、演出、舞台監督、音響、照明、映像、特効、舞台美術、運営、進行などなど、それぞれのセクションのスタッフが推進チームを組んで創り上げていく。 関西の現場であろうが、地方の現場であろうが、海外の現場であろうが、そこは変わりません。 それぞれのセクションの連携が一番大切です。 仕事の依頼主・クライアントさんが、何をしたいのか、何を求めているのか、それをどのようにして形作っていくか。 同じ方向を見ながら、一緒に作っていけるスタッフかどうか、がとても重要なキーとなります。 寝食をともにすることも、大事な要素です。飲み過ぎは良くないですが・・・・・笑

 

最近始めたインターネットラジオのパーソナリティ、 コンセプトは「裏方さんをフィーチャー」すること、、、、 イベントという、ともすれば派手で華やかな仕事を、影で支えているスタッフがどれだけいてるかを少しでも知って頂きたい。 そんな想いで今年の2月から始めて、7月で10人のゲストの方に出演いただき、拙い私のパーソナリティにお付き合いいただきました。 そして、それぞれのゲストの方々の軌跡をお伺いするにあたって、本当に「人に歴史あり」を感じます。 30分でどこまで、その方々の個性を表現していただいたかは、わかりませんが、本当に、おひとりおひとりの人生の軌跡を垣間見たような気がします。またこれからの活躍を期待したいと思います。 そして、まだゲストにお呼びできていない素敵な方々がいらしゃいます。 そんなそれぞれの世界で頑張っていらっしゃる人々をこれからは繋いでいけたらいいな、と考えます。 少子高齢化、インバウンド、介護のこと、人手不足、AIなどロボット世界の到来、自然災害における減災・防災対策など・・・・我々の生きている時代は常に変化し、変貌しています。 人間が仕切っているようで、それは間違いで目に見えない大きな力が我々をいつも試しているのではないか、そう思います。 だからこそ、一人一人のノウハウの連携が必要な気がします。 また、異業種の連携が新たなものを生み出すような気がします。 テーマに沿ってそのソリューション策を考える。視点が違えば、見え方も発想も今までにないところから生まれてくるのではないでしょうか・・・ 十人十色、10人集まれば、それぞれの発想があるはず、その発想を加減乗除することで生まれる新たな知恵。 最近、そんな素敵な人々の想いを知るにつれ、これから先何かできることはないだろうかを考えます。

 令和元年も1ケ月が過ぎ、ひと時の喧騒も静かになってきました。
日々、新しいことへのチャレンジを模索しています。
できること、できないこと、を両天秤にかけながら、やりたいこと・やりたくないことを取捨選択。
できることでやりたいことであれば、即GOです。
まずは、最初の第一歩から・・・・
やりながら、考える。
うまくいかないことは、多々あれどそれも糧にできる経験として・・・・
2月から、インターネットラジオのパーソナリティに挑戦中、です。
スポンサーがいないので、ある種気楽にお話をさせて頂いています。
毎回、長いイベント業界で出会った「裏方さん」にゲストに来ていただき、お話を聞いています。
私にとっては、皆、仕事の先生であり、「福の神」です。
その方々との出会いの連鎖が、いまの自分を作っていることは確かです。
必要な時に必要な出会いが、私をそして私の会社を支えてくれているのは、確かです。
ゲストは月2名しかお呼びできないので、まだまだ、お世話になった方々に声かけ出来ていませんが・・・・
拙いパーソナリティの私に合わせてお話いただいていますが、
ゲストの方々の人生の一端をお伺いできることは、私にとっても大きな発見ですし、
案外知られざる一面が垣間見えたり、楽しませて頂いています。
イベントといっても実に様々な業務があります、華やかそうなステージイベントやキャンペーンなど、
プロモーションイベントには、必ず目的遂行のミッションがあります。
売上増加、ブランド力強化、認知度アップ、集客効果などなど。
単に、楽しく、騒いで終わりではないのが、プロモーションイベントの宿命です。
実は、そんなミッション遂行のために、裏方として頑張っている方がどんな業務をしているか、
少しでも知って頂けたらいいなっということでゲストに来ていただきお話頂を伺っています。
それぞれの得意なことをコラボしながら、新らしいビジネスモデルが見つかれば面白いのでは、と考えます。
デザインが得意、料理が得意、役者としての表現力、プロデュースが得意、船を活用したイベント構築、音楽を違う形で広めたい・・・・
特に大阪は今後、国際イベントが目白押しです。
グローバルな世界で、一人一人のヒューマンパワーの結集が必要です。
私のパーソナリティチャレンジが、周囲の人々の新しいチャレンジにつながれば、またそれも嬉しいものです!

初めての雨に降られたにもかかわらず、最後までカッパを着て、また傘を差して、残っていただいたお客さんには、感謝しかありません。

毎年、基本、実行委員会が、ほぼ1年かけて企画を考えます。
実行委員として、構成内容、収支予想、動員方法など、
プロモーションイベントと違って、クライアントがいない。
従って、協賛、協力、後援を自分たちで集める必要があります。
助成金へのチャレンジもします。

実に様々な方々の力が結集しています。
もちろん、発起人のkogakusyu翔のメンバーは自分たちの活動の合間をぬって、出演者の発掘、交渉など、そしてその後は、出演に際しての合同練習など、本当に、華やかなステージでの演奏だけではなく、実に年間通じて休む間も無く、裏方としても、動いています。

6回続けていることの意味を考えます。
プロモーションイベントは、クライアント(スポンサー)が辞めると言えばなくなります。
当然、プロモーション活動なので、その予算に合った効果がないと、選択肢としては仕方ない面があります。イベントを販促方法の手段とする限り仕方ないことです。
一方、「ユメハネ」はクライアントがいません。協賛頂いている企業さんもありますが、販促目的というよりも、「このイベントの趣旨」に賛同いただいてエールをおくっていただいている感じでしょうか・・・・
正直な話、今後も「エールをおくって頂ける企業さん」が増えると助かります。
本当に、6回続けることは大変なことです。
時間的な制約、経費的な制約など、、、
しかし、クライアントがいないということは、我々の想い、そして参加いただいた学生さん、ゲスト、そして来場いただいたお客さんの想いが一番と言えます。

少しずつ、知名度も上がってきてます、「継続は力なり」と言います。
少しずつ、力を頂いていることも確かです。

平成から、令和へと時代が移り、新たな時代が始まります。
心の時代、その心に刻めるイベントを今後も作っていきたいものです。

改めて、ゲストの方々、学生のみんな、裏方で頑張ってくれた学生さん、プロのテクニカルスタッフの方々、そして雨予報に関わらず、多くの来場者の皆様に感謝をしたいと思います。

秋から冬そして春、4月の入学式を創るために費やす期間。
実に、多くの人たちが関わるプロジェクトです。
2014年、6年前から参画させていただいています。
最初は、手探りの中1時間30分の式典のために、ブレーンストーミングを行いながら、いかにベターな演出・内容ができるかを試行錯誤していきます。
新入生のために、何ができるか・・・・・
また、在校生にも参加いただき、彼らにもこのプロジェクトの意義を理解いただき、素敵な演出の一員として活躍いただいています。
そういう意味では、新入生だけではなく、在学生にもメッセージが伝わっているように感じます。
一見「華やかな入学式」と一元的に捉えられがちだが、
その裏で長い期間の切磋琢磨した時間を理解して頂きたいと思います。
我々プロのバックアップもそんな彼らの頑張りに支えられていることを、改めて感じます。
そして
本番中の笑顔がすべての苦労を洗い流してくれます。
改めて、素敵なプロジェクトに感謝したいと思います。
今年のダイジェスト映像をご覧ください。