23歳にして、初めての海外旅行、また一人旅で、かつ、行き(入国)と帰り(出国)だけが決まっている旅。

まさしく若気の至りとしか言いようのない旅程と言える。

あれから、30年以上たち、その後、いろんな国々に観光・仕事で行かせてもらったけれども、
やはり、インド放浪の旅は、強烈に残っている。
今、同じ旅をしろと言われても、できない。

昨今のインバウンドブームや先のラグビーW杯など、海外から日本に来る方々、概ね良い印象を持ってもらっているようだ。逆に言えば、まだまだ日本の実態を海外の方々は知らないのだろう。
極東に位置する我が日本は、その距離以上に、不思議な国なのかもしれない。

また、先日の即位礼正殿の儀による、世界への天皇陛下の即位の宣明。
日本国の世界における立ち位置。
唯一の原爆被爆国としての、メッセージ。
地震・台風・豪雨などの自然災害列島としてのこれからの役割。

まだまだ、地球上において、様々な争い事が起こっている、テロ組織がどこかで蠢いている。
貧困が故に病気が蔓延している。
地球温暖化に伴う異常気象問題。
プラスティック問題などの環境問題、などなど、実に様々な諸問題が全世界各地に横たわっている。

本当に、世界は広いと思うけれども、その国に課せられたミッションを忘れてはいけない。
地政学的に極東に位置し、海に囲まれている日本の役割とは・・・・・・

SNSなどによる情報拡散の時代に我々はどう向き合っていくべきなのか、無関心ではいられない。

ガンジス川からの光景は、今も自分の心象風景として刻印されている。
あれから、30数年経ても、それは変わらない。
幾分、衝撃的な現実を目の当たりにして、少し滅入っていたのかも知れない。
なので、当時からインドの伝説の宿と言われる「久美子の家」に立ち寄る。
当時日本人なら、必ず立ち寄る、バックパッカー向けのゲストハウス。
ガンジス川の現実に少し疲れたのか、日本人に会いたかったのだろう。
しかし、そこに貼られた「行方不明者の写真」の数々。
インドは治安が悪くないとは聞いていたが、残念ながら、「日本人のパスポート」は高く売れる故に、狙われやすい。安心安全が当たり前の日本とは全く違う価値観。
私は、心身ともに、癒されたくて、ネパールへ向かうことにした。
陸路で国境を越える、エベレストの国・ネパールは顔つきも優しく、なんとなく、日本人に近い気がしたものだ。
私は、カトマンズから避暑地のポカラへ。
インドから逃げるように急いだものだ。
生と死が隣り合わせのインドから、エベレストを背にした町・ポカラ。
ここで、いく日か、深呼吸するのも悪くない。
湖畔のゲストハウスで、何も考えずに、ボーッとする。
激辛の食べ物で胃が暴れていたのを、ここで癒す。
刺激がありすぎると、普通が愛おしくなる。
その後、再びインドに入国。
タージマハルから、ニューデーリーへ・・・・
強烈なインド から身を守る術は観光客に徹すること。
目に入る風景、耳に入る音、街の匂い、寄ってくるインド人たち、それらをあくまで、観光客として捉えること、ポカラからインドに再び入国に際して、自分に課したインド放浪の旅の術だ。
17日間の放浪の旅が終わって、帰国。
伊丹空港に着いて、待っていたのは、ロストバッゲージ。
最後まで、インドらしい気がしたものだ・・・・・・
今、改めて「インドを考える」
13億人という、巨大な人を育むインド 。
暑さ、汚濁、喧騒、環境そのものが混沌としているカオス状態。
カーストに根差した、ある意味、生きることに対する諦め・無常感。
輪廻転生を信じることでそのバランスを保つ倫理観。
今のインドは、知らない。30年以上前の私に刻んだ風景が大きく変わっていることを祈るしかない。

インドネパール放浪記
〜沐浴の街〜

日々、「地球の歩き方」と睨めっこしながら、どこへ行こうか・・・・決まっているのは、最後は、ニューデリーから、帰国することだけ。

コルカタ(旧カルカッタ)から、次に目指したのは、インド北部のヒンドゥー教の巡礼者の聖地・バラナシー(ベナレスあるいはワーラーナシーとも言う)
ガンジス川沿いにあるこの街にヒンドゥー教徒たちは、巡礼にやってくる、あるいは、ここで死を待つ人もいるらしい。皆その聖なる川で、ひたすら沐浴をする。
私は、船からそれを眺める。河岸に煙が上がっている一角がある、船頭さん曰く「火葬場だよ、長く見るんじゃない」と窘められた。輪廻転生、この川にその灰を流されることで、生まれ変われることを祈る。
まだ、なおカースト制度が深く残るインドの人々の祈りだろうか・・・・
船頭さんの父も、祖父も船頭さん・・・・・他の職業に就く自由はない。
子供の死体が、半焼けで流されている・・・・
沐浴をする人々、洗濯をしている人々・・・同じ川に、死と生が同居している。

その時は、ただただ、船からの眺めにただ愕然としていたものだ。
川辺の右岸には、沐浴をする人々の背後には、ひしめくような建物が川面に映る反面、一方の川辺の左岸には建物が一つもなく、見渡す限りの原野が広がっている。

左は不浄という思想のせいらしい。なので、ご飯は右手で食べ、左手はトイレ時の洗浄となる。

混沌としている街には、像が、牛が、人々と一緒に歩いている、・・・

陸も川も、この煩雑としている国、インド・・・・

今思い起こすと、人間の業がその街に凝縮されているような気がする。

初めての海外旅行、それもひとり旅。 パートナーは「地球の歩き方」のみ・・・ 伊丹から、最初はタイ・バンコクでトランジット。 1泊、バンコクのホテルに泊まって、次の日にインドへ向かう。 旅の試練はその日から訪れる。 空港からのタクシーでホテルに向かっていましたが、一向に着かない。 タクシーの運ちゃんが仕切りに営業をしてくる。 おそらく、「知り合いの飲み屋あるけど、行けへんか?可愛い子いてるよ・・・」って感じ。日本人を見ればそういう営業をすることを聞いていましたので、「ノーサンキュー」と断ったが、ホテルの部屋までついて来られた時は、流石に恐怖を感じた。 次の日、バンコクの空港でインド行きを待っていたら、同世代の日本人と出会い、 色々、この先のことなどを話しながら、彼は「昨日ぼったくられたわ〜」って・・・ やっぱ日本人は舐められてるな、と改めて気が引き締まる思いになったものだ。 そして、初めてのインド・・・・・・・ 30年以上前です。今はどうかわからない。 あくまで、私の記憶にインプットされたその時の情景。 空港から降り立って、空港から出た時、、、、、、 喧騒、汚濁、悪臭、むせ返るような熱気・・・・街自体がカオス状態 道路には、物乞いが座っている、ストリートチルドレンや障害を持った人がいる。 「バクシーシ(喜捨)」とボウルのようなものを持って、近寄ってくる。 富める者が貧しい者に施しをすることは当たり前という風潮がそうさせているようだ。 組織的な物乞いもいてると聞かされていたので、ここは、グッと堪えて、気づかないように歩き進む。 象のフンがあちらこちらに落とされている。 とにかく、インドの旅は始まったのだ。 「とりあえず、今日の宿を探そう」 私は、“地球の歩き方”に目を凝らしながら、異国の空気を大きく吸い込んだ。

https://www.arukikata.co.jp/guidebook/series/book/D28

 

教育実習が終わって、少し「先生」への未練を引きづりながらも、イベント業界のアルバイトスタッフをしながら、そのノウハウを吸収すべく、大学生活の残りを過ごしていました。
もちろん、就活もしました。
採用は無理だろうと承知で、大手の広告代理店や在阪のテレビ局の試験は受けました。
結果は言わずもがな、ですが・・・・
そんな時に、声をかけてもらったイベント会社が数社ありました。
当時は、この業界、採用試験なんか無い時代です。
アルバイトして気付いたら「名刺」が出来上がっていて、
「ここが君のデスク、明日からおいで・・・」みたいな感じです。
条件面など聞く間もないくらい、当時は、ブラックな業界でした。
業界的に成熟していなかったと言えるでしょう。
昨今の「働き方改革」なんて言っていたら、会社が持たない時代です。
徹夜は当たり前、会社で寝るのも当たり前、遅刻も当たり前、そんな時代です。
色々、悩みましたが、当時「社長入れても3人」のイベント会社に就職を決めました。
残念ながら、今はもうありませんが、1987年卒業後にお世話になりました。
とは言え、結局その会社には、2年弱しか居ませんでしたが・・・・
ただ、その当時の社長に教えていただいたのは、
「仕事を選ばなければ、石ころをひっくり返せば、その裏には仕事はいくらでもある」
今も、その言葉を思い出します。
事業主になればなおその言葉が重く感じられますし、
断るのは簡単だけども、断らない勇気を持つのは、もっと大変な気がします。
今も、縁があって来る仕事は、よっぽどのことがない限り、基本断らない主義です。
実際に就職先が決またあと、もう長い休みなど取れないことを覚悟してましたので、
就職前の1987年3月、卒業旅行に行くことになります。
そして、なぜか、「インド一人旅」それも初めての海外旅行です。
理由は思い出せません。当時バックパッカーが流行っていたのでしょうか・・・
タイ・バンコクでトランジットをして、コルカタ(カルカッタ)に入り、その後は17日後にニューデリーから出国することだけ決めて、泊まる場所も、行き先もすべて行き当たりばったりの、フリープラン。道先案内は「地球の歩き方」というガイドブックのみ、、、、

 

 

 

1985年の夏の「1000人ツアー」の大失敗後、旅行会社から仕事をいただきながら、その赤字を埋め合わせて行きました。

やはり、モチベーションの低下は計り知れません。いけいけドンドン過ぎた反動です。

結局は「何でもお手伝いセンター」を辞めましたが、イベント業界への未練はありました。その後、それまでお世話になっていたイベント制作の会社にアルバイトスタッフとして、色々仕事をさせていただきました。実践を踏みながらの勉強でもありました。
マニュアルや進行台本の書き方・リスクヘッジのポイント、何を目的としてそれを作るのか、先輩からアドバイスを頂きつつ、手書きで作りながら、そのノウハウを蓄積して行きました。
そのように学びながら、「1,000人ツアー」の開催が、いかに甘いノウハウだったか、大いにその失敗を痛感したものです。

4回生になると、周りは就活のことで騒がしくなります。その当時は、売り手市場で
特に、金融・証券業界は大盛況で、私の友人もそこに向かって面接を受けまくっていました。リクルートから送られてくる会社案内のハガキをこれでもかと送っていました。
しかし、その後バブル崩壊、銀行は統合・再統合と今や当時の銀行の名前すら跡形もありません。証券会社に至っては、本当に泡となり、跡形もありません。
未来予想ができるとしたら、あの就職時の喧騒はなかったろうと思います。
全く、世の中どうなるか、わかりません。
そんな就活喧騒の真っ只中、教員免許取得に必要だったので、私は「教育実習」として母校の教壇に立っていました。

校訓は、誠実・努力・奉仕、今も変わりません。高校時代は器械体操部で3年間、朝昼、夕刻と練習の鬼と化していました。体育系クラブが強かったせいもあります。サッカー部は全国大会にも出ている強豪校でしたし、部活の先生は、元オリンピック選手もいました。そんな思い出深い、母校での教育実習です。あまりいい加減なことはできません。

ただ、
心のどこかに、「教師」はもういいかな・・・って感じで、少しそこへの情熱は薄くなっていた気がします。というのも、やはりイベント業界への未練があった気がします。
「教育実習」では7歳下の高校1年生を受け持ちました。40数人の瞳が自分に向けられる緊張感を今でも思い出します。また、みんなで歌った「HOUND DOGのフォルテシモ」を聞くとその当時の情景が走馬灯のように思い出されます。
それなりに充実した「実習」ではありました。教師はもういいかなっと思っていた私に情熱をくれたのは40数人の生徒たちでした。しかし社会に出たことのない自分が教師になるのは、少し早いのではないか、社会に出てから、教師を目指しても、それは遅い選択ではないだろう、そう結論づけ、結局採用試験は受けませんでした。

決断をするのは、、難しいことです。
「あの時、教師を目指していたら・・」
たられば、はいつの時代にもあります。

今となっては、色々ありましたが、イベント業界でお世話になっていることは、
有難いことだと感謝しております。

1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人〜300人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。
大学2年生から3年生、私は、浪人生活を経てますので。20歳21歳のまさしく、“世間的には大人”になる年齢です。
しかしながら、まだその感覚は全くなく、いわゆる青春時代を謳歌していました。
何でもお手伝いセンターという、「依頼があれば、法律に触れること以外は基本やります」という姿勢でしたので、「?」と思うような依頼も多々ありました。
見も知らぬ人の披露宴で「盛り上げるアトラクションを何かして欲しい」・・・・・
結局、一世風靡セピアの「前略、道の上より」を褌締めてやったこと。
バク宙をやって盛り上がったのを思い出します。
他には、当時吉本花月が、梅田・難波・京都とあり、新喜劇の出し物が順番に各花月でありましたので、
その出し物の大道具(机、椅子、植木など)や小道具を次の花月へ運んだものです。
吉本新喜劇は何度も無くなりそうな憂き目にあっていましたので、予算も限られたんでしょうか・・・
「新喜劇の大道具」の運搬は思い出深い仕事の一つです。
中には、いわゆる美味しい仕事もありました。
その頃、大鳴門橋が開通し、淡路島が結構注目されていました。なので、ペンションなどもたくさんあり、大阪・神戸・京都から、若い観光客を呼び込もうと結構取材があったそうです。
ある新聞社の『淡路島のペンション体験紹介コーナー』に「仕事」で参加させて頂きました。
美味しい料理を食べて、温泉に入って、素敵な部屋で過ごす「仕事」です。我々がモデルです。
今尚、あの取材は本当に良かったのかどうかは、不明ですが・・・・
当時、そんな「淡路島」で開催されていたのが、『くにうみの祭典』(1985年4月21日〜8月31日)です。
淡路島は関西人にとっては、近くでありながら、夏場はなかなか行けない島でした。
夏休みは、フェリーで何十時間待ちが当たり前の状態でした。
なので、大鳴門橋が開通したとは言え、大阪からはやはり船です。
この時期は、船で行く「くにうみの祭典」ということで、船上ラジオ公開放送など、実に様々なイベントを船を活用し開催されていました。
我々は、スタッフとして、参加させていただきました。
その後、瀬戸大橋、明石海峡大橋、しまなみ海道など、橋が完成するごとに、博覧会が開催されていきます。
JAPAN EXPOなど世はバブルとともに博覧会ブームが到来していきます。
我々も、それが大きな荒波だと気づかずに、巻き込まれていきます。

 

 

今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。

高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。

固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。

あるのは、ただそれだけです。

 

インターネットも携帯電話もない時代です。

情報自体に価値があった時代です。

電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。

 

まず、我々がやったのは、

そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。

大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・

20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。

アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。

ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。

4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。

 

 

そして、電話が鳴りました。

「何でもお手伝いセンターです。」

「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。

油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。

なんせ、初めてのミッションです。

私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。

タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。

「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。

今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。

ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。

2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。

効率的と言えば効率的です。

「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。

戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」

とんぼがえりです。

スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。

まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。

最初のミッションから波乱万丈でしたが、
この後、「何でも屋さん」は2年余りの活動期間でしたが、
幕開けは「換気扇洗い・蓋落っこちた事件」から、でした。
何でもお手伝いセンターを始めて、2ケ月くらい経った頃だろうか、1984年・大学2回生の夏休みだったと思います。
イベントの制作会社から、若者を20〜30人手配して欲しいと言う依頼がありました。
その頃は人材派遣会社も一般的ではなかった頃です。パソナがまだテンポラリーセンターと呼ばれていた時代です。
何でもお手伝いセンターは、大学生を中心に若者の集団です。
友人の友人に会員登録してもらって、アルバイトを斡旋する仕組みが出来つつありました。
登録料など不要です。アルバイト斡旋に、ディスコパーティなどを企画していましたので、会員になることを断る理由はありません。当時は、学生主催のスキーツアーや、沖縄ツアーなど学生が主催者として、企業とタイアップしていた時代です。
イベント制作会社からの依頼で、20名ほどの若者を引き連れて行ったのが、奈良公園です。
そこで行われるのが、「高校生クイズ選手権・近畿地区大会」です。
日本テレビ系列がやっている「通称、ウルトラクイズ」の高校生版です。
我々は、そのスタッフとしてお手伝いです。
初めて、そのような現場に行ったので、難しいことはできません。テレビ局のアシスタントディレクターの指示のもと、
我々のミッションは、ロープマンです。
「YESかNOか」クイズ出題のあと、どちらかに出演者の高校生が移動します。その分けるためのロープを持ったスタッフが我々です。経験値は要りません。
しかしながら、出演している高校生の真剣な姿や、その姿をカメラで追いかけるテレビクルーなどを側で見るにつけ、イベントの面白さに、興味を持ったことは確かです。
そして、その後、毎回スタッフとして呼ばれることになります。
ロープマンから、受付スタッフ、そしてフロアーアシスタントディレクターと、徐々に、役割も出世して行きました。
ディレクターさんと一緒にマニュアルを作ることもありました。
そのころは、すべて手書きですが・・・・・・(笑
そのように、「何でもお手伝いセンター」には、実に様々な「助けて」依頼が舞い込んできます。
プレス工場のベルトコンベアのスプレー缶を収納するアルバイト、牛乳配達、オーディコロンのデモ販売、アイドルタレントのミニライブの警備、自転車競技のコースに立つ警備スタッフ、ライブハウスツアーの運転手兼アシスタント、吉本新喜劇の大道具運搬、ラジオ芝居の出演、獅子舞の中に入って踊るなんてこともやりました。
また、同時に、ディスコパーティや、バーベキューパーティ、沖縄ツアーなど「遊びの企画」もやっていました。
その後、イベントの裏方スタッフの面白さを知った僕は、積極的にイベントスタッフの方にシフトして行きました。
暑い夏、台風も近づいて来ています。
海や川、山での行楽は、本当に安全には気をつけて頂きたいものです。
お盆になると、小学校時代「夏休みの宿題の残りをどうするか」焦った記憶があります。
夏休みが始まった頃は、「まだまだ、休みは長い!」って・・・・
翻って、この歳になると、お盆になると「私自身のルーツ」を思います。
先祖からの長い軌跡が、今の自分の家族につながっていると考えると、
「私の祖先」はどんな人で、どんな人生を歩んでいたのだろう・・・・
父は大工、祖父は漁師と実業家、曽祖父は宮大工だったそうで、それ以前はわからないそうだ・・・・
そう考えると、不思議な軌跡は、本当に奇跡が続いているのかも知れない。
お盆くらいは、「祖先」に想いを馳せるのも良いかもしれない。
しかし、小学生の夏休みはなんであれだけ長かったのに、「アッと言う間に終わった」のだろうか・・・
今だったら、「暇で仕方ない」かもしれない。

北海道でのアルバイトが決まって、

大阪からは寝台列車・銀河で東京へ。高校時代の友人と久しぶに上野公園の西郷さんの銅像前で再会。
そして、私は、その夜、またもや寝台列車で上野から青森へ
そして1983年当時は、まだ青函連絡船でしか北海道に渡れませんでした。
函館の港が見えた時は、「北海道にやっと着いた・・・・」と感慨深いものがありました。

函館の街を観光した後は、列車で、豊頃町へ
全国からこのアルバイトに応募していた学生達が10数名いた気がします。
ジンギスカンで歓迎会をしていただき、
その後、それぞれのお世話になる「農家のオヤジさん」に引き取られるように、
三々五々、別れ、長い夏が始まりました。

私がお世話になった農家は、「牧草」を刈り取り、サイロに貯蓄していくことがメインの仕事です。
牛の餌になる牧草を冬季のために保存しておくのです。
何ヘクタールもある牧草地の牧草をトラクターで刈り取り・サイロに運ぶ作業です。
作業は力仕事で、大変でした。やはり夏です、汗だくになりながら、草まみれです。
朝、陽が昇る頃から陽が沈むまでの作業。
しかし、雨が降ると全く作業ができません。
その年は、結構雨の日が多く、そんな時は、オヤジさんが車で北海道巡りに連れて行ってくれました。
襟裳岬、阿寒湖、網走刑務所、など、本当にアルバイトに来ているのに、良いのだろうか・・・と
我々、学生アルバイトがいてるうちに、全ての作業を終える必要があるにも関わらず、です。

やはり、当時から若者は都会へ出てましたので、後継ぎ問題はその頃からの課題だった気がします。
農家には、若い力が必要です。

色々ありましたが、刺激的な1ケ月余の住み込みのアルバイトは19歳の私に貴重な体験をさせてくれました。

青く高い空、どこまでも続く大地は今も尚私の脳裏に焼き付いて離れません。

やっと、長い梅雨が明けたと思ったら、猛暑到来です。熱中症には気をつけて頂きたいものです。
8月になると思い出します。梅雨のない北海道の夏。19歳の時のことです。
1年間の浪人生活を終え、1983年4月関西大学経済学部に入学。
本来は、体育の教師を目指していましたので、福岡教育大学を第一志望にしてましたが、
当時の「共通一次試験」と「二次試験」で合格は叶わず、社会科の教員免許の取れる、関西大学に入りました。
浪人時代の辛さを考えると、社会科でも教員を目指せるならばと、入学当初、大学生生活にウキウキしたものです。
4年間の社会人になるまでのモラトリアム期間、どのように自分自身をデザインするか、体育の教師の道が閉ざされたので、
体育会系(当時器械体操をしていました)の部活に入る必要もなく、とにかく色んなことにチャレンジしよう。
と言うことで、3つのことを自分自身の約束事として決めました。
「教員免許を取る」こと、「普通自動車の免許取得」そして「北海道に行く」ことの3つは絶対叶えると決めて、
その他は、なんでもやろう!みたいな感じで、キャンパスライフが始まりました。
そして、「北海道行き」は案外早く訪れました。
単に行くだけなら、お金さえ貯めればいけるので、「それは面白くない」
当時、扇町公園の西隣に「学生相談所」なるものがありました。
そこに行けば、アルバイトを紹介してもらえるのです。
関西の大学生であれば、誰でも紹介してもらえたのではないでしょうか・・・
少し記憶が曖昧ですが、当時は、アルバイト情報誌とかが、まだ一般的じゃなかった気がします。
あっても、情報誌自体が有料だったり、人材派遣業も一般的ではなく、
大学生がアルバイトというと、「学相に行く」が定番だった気がします。
そこで、見つけたのが「夏季・酪農家アルバイト」です。
1ケ月近くの住み込みアルバイト、バイト代がもらえて、3食・寝泊まり付きです。交通費も出ます。
至れり尽くせり、と思って私はすぐに申し込みました。
酪農家のほか、昆布漁などもありましたが、私がチョイスしたのは、北海道帯広豊頃町の酪農家です。
暦の上では、今日は、二十四節気の一つ、大暑です。
しかしながら、今年は、梅雨明けが長引いており、日照不足で、
農作物など、様々なところで影響が出ています。
しかし、夏といえば、ビアガーデンです。
昨今は、料理もビッフェ形式で味もそこそこ美味しいですし、様々な工夫がなされていて、会社帰りの人たちの楽しみの一つですね。
思えば、33年前になります、あるビアガーデンで「トロピカルビアガーデン・DJステーション」というイベントを期間限定でやっていました。
当時、ビアガーデンの呼び物の一つとして、お客様のリクエストに答えて「音楽」を流すイベントです。
まだ、「歌」を持ち運ぶことが普通じゃ無い時代です。
ビールジョッキを片手に、好きな曲をリクエストしていただき、女性のディスクジョッキーが話をしながら、レコードで
音楽を流します。
曲と曲の間には、「プロ野球速報」でタイガースの途中経過をお知らせしたり、
リクエスト曲のトピックスを話したり・・・・
ビアガーデンの「お食事券」が当たるクイズをしたりと、お客様に楽しんで頂くための「DJステーション」です。
私は、フロアーアシスタントディレクターとして働いていました。大学4年の頃です。就職をどうしようか、悩んでいた頃だったと記憶しています。
「カレーチケット」をもらって、社食でカレーを食べながら、ディレクターと打合せです。
進行台本に沿って、全体の流れを理解して、「このタイミングでプロ野球速報を、ただしタイガースが負けてる時は、すぐに次の曲、そしてクイズもあまり引っ張らんと、多めに当たりが出るような問題にしよう・・・・」など
酔っぱらい相手なので、ちょっとしたことでクレームになります。特に、タイガースが負けてる時は危ない・・・・
女性のディスクジョッキーは、アナウンススクールの卵、若手だった気がします。
あの頃は、20代前半で現場を任されていたくらい、仕事がありすぎた気がします。
思えば、バブル絶頂期です。世はビアガーデンも毎夜盛況なくらい浮かれていたのでしょう。
その後、ビールの泡も弾けるような暗い失われた20年を迎えようとは、誰が想像できたでしょう・・・・
一寸先は闇、今思えば、そんな時代の華やかなイベントだったと思い出されます。
何でも屋の仕事で、「“歩こう会”と一緒に歩こう」というものがありました。
 
1985年6月、四国と淡路島が橋で結ばれました。
大鳴門橋は、後の、岡山と香川の瀬戸大橋(1988年)、明石海峡大橋(1998年)しまなみ海道(1999年)に先駆けて開通。
淡路島といえば、夏休みになると海水浴客がフェリーで渡っていたので、10時間待ちなど、長時間待ちも常態化していました。
橋が架かることでその経済効果は計り知れなかったのでは無いでしょうか・・・
その後、瀬戸内海を渡る橋が様々なルートで開通し、その度に博覧会が開催されたものです。
その話は、後日させていただきますが。
大鳴門大橋は、淡路島と徳島県を結ぶ橋、本州からはなおフェリーで渡るしかありません。
とは言え、初めて四国と淡路島が陸続きになったことは画期的な事です。
その年、淡路島では「くにうみの祭典 淡路愛ランド博覧会」という博覧会が4ケ月余り開催されました。
この博覧会は、私に大きな転機を迎えさせるのですが・・・・・・
橋や高速道路が新しく開通する直前に、記念に「歩こう会」が開催されます。開通後は、車の専用車線となりますので、
一生に、一回の歩き納めと言えるかもしれません。
全国の「歩こう会」の有志たちが集まってきます。
その時も、そうでした。
私たちは、スタッフとして参加です。「歩こう会」の方々は老若男女・様々な年齢の方がいらっしゃいます。
我々スタッフは事故のないように、一緒に歩きます。
渦潮が、真下で大きな渦を巻いていたのを昨日のことのように思い出されます。
しかし、あの当時は本当にいろんな仕事が舞い込んできたものです。