2年後に迫ってきた『2025年日本国際博覧会(略称「大阪・関西万博」)』
1970年の大阪万博と比べられるが、時代背景も状況も違っている中で、そこを論じても答えはない。
また、東京オリパラでの不祥事が解決されていない中、疑念があることも確かである。
何が正解かどうかはわからないけれども、地方博含めて、大規模イベントが地方活性化の起爆剤の一つであることは間違いない。
ただ、あくまで起爆剤であり、「その後」が大事である。
花火と同様、打ち上げた美しさに見惚れていてもダメ。
その実績をどのように未来へ繋げていくかが重要である。
1970年の大阪万博のレガシーは間違いなく、「太陽の塔」であろう。
当時、大きな反響があったことは、のちにメディアなどで知ることになる。
50年以上経って、岡本太郎のメッセージの意味が伝わっているのではないだろうか。
テーマ「人類の進歩と調和」とは如何なるものか・・・
しかしながら、「万博」開催自体は、賛否あれどもその後の日本の繁栄を世界に知らしめたことは間違いない。
そして、2025年、再び行われる万博。
どんなレガシーを残すことができるのであろうか。
40年近く、イベント業界でお世話になっているからこそ、その意味を考えたいと思う。
2020年、6月新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、世界中がこの先どうなるのだろう、と不安しかなかった時期に、マーケティング勉強会「オンライン内海塾」がスタートしました。
内海塾自体は20年前から開催され、私の人生において欠かすことのできない勉強会です。
WEB会議が、一般化したこともあり、オンラインでの講義も普通になっていました。
実際は、マーケティング以外にも示唆に富んだ話題を常に提供いただき、
人生における指南書のような講義です。
迷ったり、戸惑ったりしつつも、王道を忘れることなく、戻るべき場所に連れて行ってくれます。
コロナ真只中の2020年から3年弱、オンライン内海塾は30回を数えました。
人と会えない、人が集まれない状況下で、このオンライン内海塾での講義は得難い体験となりました。
昨日、ひとまず第一期が終了しましたが、改めて内海塾長との出会いの不思議さと有り難さを思います。
「出会い」は決して偶然ではなく、必然なのだろう。
なぜなら、一つの「出会い」が自分の人生の転機となることが多分にあることは、今までの人生を振り返ってみて、心底感じ、信じられるからだ。
またの再会を楽しみに、もう少し自分自身を磨いてみよう。
<参考サイト>
内海新聞
https://www.facebook.com/utsuminewspaper
全国内海塾
https://www.facebook.com/utsumijuku
2002年、日韓共催サッカーワールドカップから、早20年がたちました。
私も、神戸会場の担当ということで、IDカードをいただき、連日会場に足を運んでいました。日本戦は行われませんでしたが、各国のユニフォームで現れた沢山のサポーターを見て、どこから現れたんだみたいな感じで驚いた記憶があります。
世界的なスポーツ大会でもとりわけサッカーのそれは全世界中を熱狂の渦に巻き込んでいます。
「俺関係ないよ」という方もいますが・・・・それも当然ありです。
世界的なイベントは、今大きく揺らいでいます。東京オリンピックを巡る問題は、まだ先が見えません。
そして、2025年の大阪・関西万博にも大きな影を落としていることは確かでしょう。
スモールカンパニーの弊社はある程度決まったタイミングで役割分担の中での業務依頼となりますので、弊社の取引先に頑張ってもらうしかないというのが実情です。
イベント自体の推進にはやはり経験値は必要であり、コンセプト作りから、スケジュール管理、コスト管理、人的キャスティングの配置、などなど実に多岐に渡る作業がある限り1社で制作することは不可能です。なので、弊社のようなスモールカンパニーがそれぞれの得意業務を団結して、制作していく必要性があります。
それは、車や飛行機を製作していく過程で様々な会社が携わるのと一緒かもしれません。
ただし、そのチームのコントロールタワーとなるべきディレクターなり、プロデューサーが重要です。スポーツで言うところの監督という立場でしょうか・・・・
目的達成に向けて、どのように、各社をまとめ上げていくか、まさしくチームワークです。ワールドカップを見ながら、裏方であるイベント作りも実は似ているような気がします。
違うところで、イベント業界が注目されていますが、華やかなその裏側で汗をかいている人々がいることは理解していただきたいものです。
久しぶりに聞いた藤原新也さんの名前に惹かれて、日曜美術館(NHK)という番組を見た。
「日曜美術館 死を想(おも)え、生を想(おも)え。 写真家・藤原新也の旅」
そうだ、この人の本を読んで印度に行きたくなって、行ったんだ。
23歳、大学の卒業旅行で選んだのが、インド。
初めての海外、それもひとり旅。
無謀が若者の特権とは言え、やはり今思うと何も考えずに、ただひたすらにインドへ行くことしか考えていなかったのだろう。
行きの飛行機と、帰りの飛行機だけ決めて、その間17日間は、気の向くままのフリープラン。
頼りは「地球の歩き方」1冊と、抗生物質をカバンに忍ばせて、トラベラーズチェックで換金。
本当に、よくぞ出国したな、と褒めてやりたい。
同じことは絶対できない。大人になって「無謀の怖さ」を知ったからかも知れない。
また、世の常識に慣れたせいかも知れない。
若さは、それゆえに未熟であり、リトマス紙のようであり、無鉄砲な存在だ。
印度で目にし、息をし、歩き、夢を見た。
潜在意識にしまっておいた、記憶の片々が、「藤原新也」の名とともに蘇る。
そうか、もう彼は78歳か、20も年上なんだ・・・・・・
35年前の記憶がスライド写真のように、ゆっくり、そして鮮明に浮かんでくる。
印度放浪は、僕の大きな大きな旅の1ページ。
32年前、この業界に入って4年ほど経っていた頃。
1990年4月から9月末まで6ヶ月間、大阪鶴見緑地で、「国際花と緑の博覧会」が開催されました。
何度か、ここでも書きましたが
私は、「大輪会水のファンタジアム」というパビリオンの催事ディレクターとして、現地に通っていました。
国際博覧会のパビリオンともなれば、事務局スタッフはもちろんのこと、表に立つコンパニオン、運営、技術、警備、清掃、物販など多岐にわたるスタッフとの連携・協力が不可欠です。
長丁場なので、実にさまざまなことが起こります。
当時、世界初のウォーターショーということで、ロボットの指揮者による、ウォーターオーケストラが素敵な音楽を奏でるショーがメインでした。口コミでそのショーの素敵さが広がったせいか、電力館と大輪会パビリオンが人気を二分するほどでした。
嬉しい反面、お客さんが殺到することになり、安全かつ満足度を失わないような運営が求められました。
私のミッションは、整理券を求める待ち客対策です。
整理券を得るためにできる行列のお客さんに「待っていること」を忘れさせるイベントの実施が求められました。
また、当時40社の連合体の大輪会グループでしたので、企業の日ということで、40社の企業のイベントを併せて企画し、実施するために、連日企業周りをしたものです。
その甲斐があり、大輪会は大盛況のうちに終了し、その後も同窓会を毎年開催するなど、今なおその当時のチームワークが残っています。
残念ながら、亡くなった方もいらっしゃいますが、このイベントを通じてイベント業界だけではなく、実に様々な企業の皆さんと作り上げたこと、今も誇りに思いますし、
私にとってのイベント業界人生でも一際心に残る催事の一つです。
2025年には大阪・関西万博が開催されます。
賛否はありますが、やはり楽しみです。
コロナ禍で、人が集まることを良しとしない風潮が蔓延しましたが、
改めて、イベントの必要性、イベントの持っているパワー、人を笑顔にする、人の心に突き刺さるものがることも実感したに違いありません。
私にとってものカウントダウンのイベント業界人生において、どんな万博になるのか、非常に楽しみです。
昨日は、当時一緒に働いていた先輩と懐かしい話に盛り上がりました。
共有できる日々を過ごした、先輩・後輩・同僚たちと、また一杯飲みたいものです。
Thank you for ALL.
*写真は、キャラクターてんまくんの氷像パフォーマンスの作品です。
真夏の日に、氷像職人さんにその場で製作してもらいました。たくさんのテレビなどの取材を思い出します。
23年前の1999年、ギリシャ・アテネ市内にあるローマ式のオデオンいわゆる屋外音楽堂・劇場であるヘロディス・アッティコス音楽堂で「ジャパンフェス」が行われ、私は舞台進行スタッフとして1週間近く、滞在。
日本からは、音響エンジニア、照明エンジニアそして舞台進行スタッフが現地のスタッフと打合せをしながら、準備を行います。
しかしながら、慣習の違いで、とにかく彼らの仕事の進め方が遅い。シエスタとか何とかで昼間は仕事をしない。昼寝時間だそう。
まぁ、日本であれば、2日で済む打合せと仕込みが倍以上の日程が必要となる。おかげで、休憩時間が増えて観光などができたのは良かった気がするけれど・・・・日本が働きすぎなのか。
イベントの内容は、日本から太鼓集団やダンサーグループなど、
日ごろ日本で活動しているアマチュアの団体が渡航費用を払って、世界の名だたる劇場で披露するというもの、お客さんはその国の日本に興味を持っている方々。
プロではないので、ある意味趣味に近いけれども、海外の方々にとっては、物珍しさも手伝ってそれなりに拍手を頂戴していた。
民間レベルの文化交流だけれども、このような催しがたくさんあれば、お互いに色々理解が深まる気がする。
新型コロナウイルスで、交流が難しい昨今だが、状況的には、世界がグローバルに繋がっていることが、このコロナ禍でハッキリしたのも確か。経済的にも、文化的にも、エネルギー問題など、一国で完結する時代ではなく、様々な国との交流が必要。
イベントは一過性のものだけれども、そこで生まれた交流は持続可能なものだし、そこから新しい価値が生まれるはず。
コロナによって、大きく変容した様々な価値観を、良い意味で前向きに捉える必要があるのだろう。
1987年7月から44日間にわたって開催されたイベント。
東京大阪同時開催のテレビ局主催の大型イベント。
大阪はインテック大阪で、様々なパビリオンがあり、さながら小さな万博のようなものでした。
私は入社3ヶ月というのに、「メルヘンジャングルはれときどきぶた」というブース運営を任されました。
フジテレビ系列でオンエアされていた幼児・子供向け番組・ひらけ!ポンキッキで人気のあった「はれときどきぶた」という児童文学作品をエンタメ風のアトラクションにしたパビリオンブースです。
その他にも、ゲゲゲの鬼太郎館やラジコンカーにCCDカメラをつけたアトラクションなど、その時代としては、最先端の技術を取り入れたエンターテイメントイベントだったようです。
今も、テレビ局主催のイベントが数多く開催されていますが、その走りのイベントだった気がします。
運営スタッフ、出演者、テクニカルスタッフなど総勢100名以上の大所帯です。
このパビリオン、結構人気があって、連日行列ができるほど盛況。それはそれで嬉しいことですが、
その分、お客さんからの要望がたくさんスタッフに入ってきます。
「待ち時間が長い」「整理券などの対応はできないのか」「暑い」「座りたい」など
子供向けのパビリオンのため、ベビーカーの置き場をどうするか、アトラクションコーナーでの事故防止に必要以上の目配りが必要、家族連れのため、迷子にならないように誘導しなければならない、などなど。人気パビリオンだからこその苦労があった気がします。
しかしながら、我々にとっては44日分の1日ですが、お客さんにとっては、たった一度の体験になります。なんとか、その要望に応えるべく、スタッフと知恵を働かせたものです。
本当に、様々なトラブルが起きましたが、今の私の原点を学んだイベントの一つではあります。
その中でも、重要なのがクレーム対応です。
対応の仕方を間違えると、ちょっと大変です。
主催者サイドも大変ですが、お客さんの思い出も嫌なものになってしまいます。
しかしながら、そこをうまくすることで、お互いに納得できるものになることも確かです。
全ての場面に当てはまるかどうかわかりませんが、概ね下記のような対応は最低限必要です。
1ークレーム相手の話を中断することなく最後まで親身になって聞く。
2ーその場での議論は絶対に避ける。
3ー明確に解答できない問題は、担当責任者が対応、それでも難しい場合は主催者が対応。
いずれにしても、クレームが発生したときは、冷静な判断と対応が必要です。
人がたくさん集まるイベントにおいて、その世界はある種、異空間であり夢の世界、ちょっとテンションが上がっていることも確かです。
みんなが笑顔で過ごせる環境づくりを心がけたいものです。
1987年、バブル日本が全盛期時代のイベントの一コマでした。
少しご無沙汰です。
一向に、新型コロナも終息する気配はなく、
欧州方面では今なお戦闘が続いている。
国内においても、遊覧船事故やなんか悲しい、やるせないニュースばかりで、
春の陽気に浮かれるわけにもいかず、・・・
ここ2年余りの間に、生活様式も変わって来たように感じます。
イベント業界も以前のようにとはいかないですし、制約が緩和されているとはいえ、
まだまだ、マスク着用の中、自由に声援をおくったり、大声を出すことはできない。
なんか、もやもや感は否めない。
気を変えようと、部屋の整理などをしていると、社会人になって初めてやった仕事の写真とチラシが出て来ました。
オールディーズのミュージカルです。
アメリカはダラスから招聘された21名のアメリカの出演者やスタッフと1ヶ月余り過ごしたイベントです。アメリカ人のステージマネージャーのアシスタントとして、ミュージカルを陰から支えさせていただきました。
本番後、皆で飲んで踊って騒いだことを思い出します。
あれから35年、確実に私のイベント人生での大きな仕事の一つであったと思います。
仕事でも、プライベートでも予期せぬことが起こることはよくあることで、アクシデントが起こった時の対応力がこれからの時代、生きる力となり得るのだろう。SNSというものが他人の様々な情報を可視化し、拡散化する時代。
打たれ強いことも、必要なスキルの一つと言える。
ただ、我慢するだけでそのアクシデントを受け入れるにはちょっとしんどい気がする。ストレスをいかに溜めないようにするか。
大阪の文化は笑いの文化である。
小学生の頃から、吉本新喜劇を見て育ってきた。
日常生活に、ツッコミとオチの会話がある。
喜怒哀楽を、笑いに代えることで日常を守ってきたのかもしれない。
そして今こそ、そのスキルが生きる力になっている。
笑い飛ばすくらいの生命力が必要な時代。
SNSで匿名で誰が言っているかわからないことを気にしすぎて、ストレスを溜めるよりは、それさえも笑いにかえる。
大阪人が二人集まれば、それは漫才だ、と言ったのは、かの渋谷天外さんとか・・・・さもありなん。
アクシデントをサプライズに変える力、笑いは生きる術だ。
アクシデントが起こった時こそ、おいしいと思う。ネタネタと一人ほくそ笑み、「これぐらいで許しといたろ!」
転けてもただで起きないのが大阪人、それが今の時代必要なスキルなのかもしれない。