Category Archives: 中野ヒストリー

 今日11月5日は「津波防災の日」です。

4年半前の2011年東日本大震災を受けて制定された法律です。
まだまだ、復興半ばであり、その間にも日本中、至る所で、地震や火山噴火、豪雨などにより、人々の生活を脅かす自然災害が起こっています。
しかし、この自然災害列島の日本においてそれは避けることのできないことでもあります。
だからこそ、我々は、その自然に対して真摯に向き合わなくてはいけません。
災害は忘れた頃にやってきます。
また自分だけは大丈夫という根拠なき理由を持ている人もいます。いつ、何時どこで、そんな災害に遭遇するかわかりません。

備えあれば憂いなしと言いますが、備えあっても憂いがある時代に突入していることは確かです。
それでも日頃から備えをすることで、災害を意識することは決して無駄なことではありません。

私は今から新潟です。
昨年は和歌山で開催された「大規模津波防災総合訓練」の現場のためです。
毎年、スマトラ沖地震以降、日本各地で持ち回りで開催している訓練です。
自治体はもちろん、県警、消防、自衛隊、海上保安庁、インフラ整備では、水道、ガス、通信などなど、実に様々な機関が連携しながらの訓練です。
地震が起こり、津波がやってくることを想定した訓練です。
当然、場所によってもその訓練内容も変わってきますが、様々な機関が連携しながら訓練することに意味があります。

この自然災害列島・日本でその自然に慄くだけではなく、共存共栄しながら、生活をしていくことが大切です。

そして、災害が起こった時に、自助、共助そして協働するために、日頃から「自然災害」に対する心構えをしていたいものです。

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 11月3日、文化の日。あらためて、「文化」とは何ぞやと考えると、ちょっと答えに窮してしまうのは、私だけでしょうか・・・

文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。(出典:ウィキペディア)

あまりよくわかりませんね・・・・(笑)

しかし、我々の考える「文化」とは、その昔、やはり、シルクロードを経て西洋・中東・インド・中国・韓国を経て、やってきた文物や思想などを思い起こします。

地政学的に日本列島は東アジア圏の辺際に連なり、その東側は茫洋たる太平洋。
そこで、東漸する文化の波もその防波堤に遮られざる得なかった気がします。
結局日本国内においてその文化は波瀾と曲折を繰り返ししながら、独自の文化へと昇華していたのではないでしょうか・・・

折しも、3年半ぶりに日中韓3ケ国首脳会談が開かれました。
政治的な思惑は別として、経済連携や文化交流はスムーズに交流できればとは思います。

今は、地政学的な問題は太平洋を越えてTPPなど含めてグローバルな世界での展開になっています。
それぞれが独自の文化を開発し発信している時代です。
特に日本におけるアニメや和食、その他日本独自のものは世界的にも評価が高いといえます。
単に西からやってきたものを加工するだけではなく、そこに日本の思想をしっかりと、取り入れています。
まさしくメイドインジャパン、です。

昔の東漸防波堤の文化の吹き溜まりの地が、まさしく今は文化を創造し発信する拠点になっています。

日本の文化にもっと自信を持って、世界に発信したいものです。

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 先日“奇跡の同窓会”の話を紹介しましたが、昨日は小学校・中学校、もっと言えば幼稚園からの9年以上も一緒に過ごした「井高野・北江口」の井高野中学5期生の同窓会でした。

ここ数年2年ごとに開催されているようですが、私自身は始めての参加でした。

 中学校卒業後、高校、大学、社会人という月日の中で、会う機会もなく、本当に37年振りに会った恩師・友人。
お互い重ねた歳の分、色々と変化がありましたが、ある瞬間に37年前にタイムスリップしていました。
その当時のあだ名(呼び名)が自然と口から出てきたり、遊んだことどもが浮かんできたり、その頃はいわゆる思春期で精神的にも安定していない時期、ちょっとしたことが気に入らなかったり、突然反抗的になったり、全く今思い返すと恥ずかしいことばかりですが、ある意味それが思春期とするならば、ご容赦願うばかり、です。

井高野・北江口地区は、北西に安威川が流れ、南に神崎川、東は摂津市に接する大阪市の北東の位置にあります。
我々の子供時代は人口増加で市営住宅の建設ラッシュの頃です。沼地や荒れた原っぱ、田圃や畑が広がる、本当に田舎町でしたが、徐々に住宅が立ち並び、それとともに、人口も増えていきました。
なので、我々の中学時代は、45人学級が7クラスありました。300人強の学童がいたことになります。
そんな川に囲まれた地区だからと言う訳ではないんでしょうが、とにかく、井高野中学は荒れていました。ガラス窓のガラスが無いとか、河原で酒盛りして、新聞沙汰になったりとか、兎に角、我々が中学になる頃は本当に大変な状況だった気がします。1年先輩の学年は、毎日、親が授業参観していたくらいですから・・・・

しかし、今考えるとそんな閉ざされた地域だったからこその良さも感じます。今はすっかり市営住宅も綺麗な団地に建て替えされていますし、地下鉄も通って便利になっているようです。昔からの戸建以外は本当に様変わりしたようです。

昨日会った同級生も井高野・北江口から他の場所に引越した人も多く、逆に「井高野・北江口」で過ごした9年以上の少女・少年時代が故にそこは“我々のふるさと”として、生きているような気がします。

私もふと目を閉じて50数年を振り返る時、必ず出てくる風景は「その頃の、自分が過ごした、井高野・北江口の風景です」

道もアスファルトになっていない、そして公園からたくさんの子供たちの歓声が聞こえる、
そして何よりも早く大人になりたいと願いつつ多くの友人たちとの思い出です。
いかにたくさんの出会いがあったか・・・
当然その後の人生の方が長くなった今となっては、その期間も人生の5分の1ですが、あの頃の出会いや思い出は確実に今の私の原点をなす思い出であるような気がします。

大人になるにつれて、いろんな経験の中で、背負わなければならないことが増えてきます。時折そんな背負っているものを下ろしてみたくなります。

昨日の37年ぶりの再会は、単なる懐かしいというだけでなく、背負ったものをおろして、ものすごく素直な自分になれた時間だった気がします。

そういう場を作ってくれた同級生の幹事のみんなには本当に感謝をしたいと思います。

そして、残念ながら、若くして亡くなった友人たちに心よりお悔やみ申し上げます。

一期一会の世の中において、また会えるということは大きな喜びであり、あらためて、頑張ろうという勇気をもらった気がします。

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 “音”や“動き”などを登録できる新しい商標制度の運用が始まったそうです。

特許庁が登録を認めたものに、
“音”では、味の素の『あ・じ・の・も・と』や久光製薬の『ヒ・サ・ミ・ツ』、ふじっこの『ふじっこのおまめさん』などのメロディー。

そして、なんと、大正製薬の『ファイト・一発!』(登録第 5274980 号)や大塚製薬の『元気ハツラツ』(登録第 4882442 号)などのキャッチフレーズも、商標登録されたようです。

企業名が入っているものは何となく理解できますが、
『ファイト・一発!』はどうなんでしょう?

何かで、使うと、パクリと言われるんでしょうか、、、

オリンピックのロゴ問題で大騒ぎになりましたが、確信犯は良くないけれど、現代のネット社会の中で意識せずに、創ったりしたものがパクリになる可能性も無きにしも非ず、です。

ましてや日本国内だけでは済まない、今の状況を考えるに至っては本当にオリジナルなものって作れるのだろうか、、、

ブランドを守るという意味において、必要なことなんでしょう。
しかし、単なる、音や動き、色彩などをブランドと呼べるのかどうか、、、

ブランドとは、信用と言い換えることができるかもしれません。
そのメーカーと顧客との約束(信頼・信用)がブランドと言えます。
そのメーカーだから安心できる、カッコいい、価格以上の価値を感じるからこそ、顧客がそのメーカーの賞品を購入するということが、信頼するブランドと言えるのではないでしょうか。

昨今はマンションのデータ偽造による問題が大きく報道されていますが、まさしく、大手メーカーの信頼は地に堕ちたと言えなくもないですね。
大企業だから、CMをやっている企業だから、が信頼の寄る辺であったものが、脆くも崩れ去っています。

パクリは当然よくないですが、完全オリジナルがどこまで、今の世の中可能なのかも非常に難しい判断と言わざる得ません。

我々消費者は、そのブランドのロゴやメロディだけではない価値基準を持って、判断することが必要なことなのかもしれません。

ブランドを守るということは、その商品が真に顧客の為に作られたものなのか、顧客が必要としているものなのか、そこが一番重要な気がします。

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 2015年も、11月12月の2ケ月を残すのみとなり、月日の流れの早さを実感する毎日です。秋もすっかり深まりつつあり、朝夕と昼間の温度差に体調を崩す方もいらっしゃるんではないでしょうか・・・・

久しぶりに先週末の土曜日の朝、自宅で配達された朝刊を郵便受けに取りに行くと、何とも重い、それは挟まれた折込チラシの多さのせいです。

近くのスーパーの大売り出し、車販売店、大手の洋服量販店、マンションなど。その種類も多彩です。
景気がよくなる時の判断材料に、折込チラシの多さがあります。
不景気の時にはそれほど広告は入りません。

まだまだ、その景気を実感できませんが、一般消費者にもこのチラシのように、景気の恩恵があればいいんですが・・・・

我々、広告に関わる人間として、景気が良い時、悪い時、それぞれの状況の中でもやはり販売促進活動は行われるわけです。
広告量の差はありますが、なんらかの一般消費者へのアプローチは必要です。

昨今、色々動き始めているのは、確かです。
不景気の時とは違う動きです。
それは兎にも角にも、予算がついて、より多くのビジネスチャンスを活かしたいという企業の思惑でもあります。
景気が良くなると、人手不足になります。
まぁ、最近は景気に関わらず労働力不足は深刻な問題です。
飲食業、コンビニ、工場の労働者、ともすれば、海外の留学生ばかりのところもあります。
景気がよくなると、益々労働力不足は大きな課題となっていきます。

少子高齢化の日本において、その労働力確保は大きな問題の一つですね。TPP問題など、今や日本だけでビジネスを考える時代でもなく、グローバルな視点でビジネスをとらえる必要に迫られています。

私の会社は様々なクライアントさんと接触する機会が多いだけに、ビジネスチャンスを掴むための方策を一緒に考えていかないといけません。
簡単ではないですが、困ったところ、困っている場所に実はビジネスチャンスのヒントが隠されていると思います。
そのヒントを具体的にどう展開していくか、スピードと決断が大事な気がします。

折込チラシが多くなればなるほどその裏にある課題が見えてくるはずです。

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 あの「バック トゥー・ザ・フューチャー2」の未来が2015年10月21日ということで、昨日はいろんなイベントも開催されていたようですね。

26年前、私もそれを見てワクワクしたものです。
その頃は、まだ携帯電話もパソコンも、インターネットもまだ一般には普及してませんでした。

その時代からまさしく激変した26年間です。
パソコンの普及により、1人に1台のパソコンは仕事には欠かせないツールになりましたし、パソコンを使いこなせないと、仕事に支障が出るほど身近なものになっています。

また、インターネットの普及により、コミュニケーションの方法が全く変わってしまいました。
それまでの電話・FAXのやりとりが、メールという、いつでもどこでも伝えたいことを簡単に送ることができる手段を持ったことにより、そのスピード感も一段と早くなった気がします。
また、電話でのコミュニケーションが減る一方で、「携帯電話」の普及によって、今までの固定電話とは違うスタイルが確立されます。
一家に1台、が一人に1台、ましてや、いつでもどこでも、携帯できる電話はその自由度、行動範囲を変えたと言えます。
また携帯電話も日々変化し続け、メール・LINE、などパソコンではない、連絡手段が実に簡単にパーソナルでできるようになっています。

今や、携帯電話・スマホのない生活は考えにくくなっています。
そんな中、携帯電話料金の3社寡占状態が続いていることも確かです。
昨今、その料金設定に異を唱える政府関係者もいて、見直し必須の流れになっています。確かに、個人消費の、通信料金の占める割合は高くその分他の消費に回らない側面も否定できません。

居酒屋やバーで若者が飲まなくなったり、車を所有しなくなったりの風潮のひとつはコミュニケーションの仕方が変わったこともありつつ、個人消費のかけ方、言い換えれば携帯電話代がかかりすぎている、ということかもしれません。
ここ最近の携帯電話料金見直し論議は歓迎すべきことで、できれば安価になってほしいものです。

しかし、10年ひと昔と言いますが、最近は3年たてば、色んなことが変化しています。
その変化にどう付き合えばいいのか、少し戸惑いつつも、未来を作るのはまさに今そのもの、です。

明るい未来にするためには、今・この現代をしっかり見つめていないといけません。

未来の日本、未来の自分はまさしく、今どうするかにかかっています。

進化し続けないといけないのは、自分自身なのかもしれません。。。
いくら技術が進化しても、過去には戻れない、が現実ですね。。。

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 今日、2年ぶりに「大輪会・水のファンタジアム」の同窓会に参加しました。

1990年鶴見緑地で開催された、国際花と緑の博覧会の出展パビリオンの同窓会です。
実に183日間の長きに渡り、苦労を共にしてきた事務局・コンパニオンの皆んなが会する場です。

 この同窓会の凄いところは1990年以降毎年開催され(2000年以降は隔年開催)毎回30名以上の参加があるということです。
引越ししたり、転勤したりの世の中で、この日の為に遠方からも参加される方もいます。

イベントとは得てして、一期一会なものです。
その期間は結構熱くなるのですが、終わってしまうと、案外「祭りの後」のように気が抜けてしまいがちです。
そしていい思い出が残る。私もいくつものイベントを手がけてきましたが、それがある意味普通です。
イベントとは、お客様にとっても、スタッフにとっても非日常です。
だから楽しいものなのかもしれません。
なので、イベントが終わると皆んな日常に戻ります。それぞれの人生に戻ります。

25年ぶりに花博跡地を訪れると、そこはきれいな公園へと様変わりしています。当然、あの熱狂したパビリオン群は姿形もありません。“夢の世界”です。

四半世紀の時の流れはそれぞれの人生に様々な日常があったと思います。
結婚、出産、出会い、別れ、転勤など。
スタッフの数だけそれぞれの人生があります。
残念ながらお亡くなりになったなった方もいます。
心よりご冥福をお祈りします。
一緒に頑張った仲間がいないことは寂しいものです。
けれども、それは絶対に抗うことのできない事実です。
だからこそ、6ケ月もの間一緒に暮らした仲間を思うんだと思います。

単に楽しかっただけではない、「それぞれの、非日常」があったんだと思います。

そして、この「奇跡の同窓会」には「それぞれの非日常」を思い出す力があります。自分自身が頑張っていた頃、輝いていた頃、やりきった充実感・・・・

今日も最後に笑顔で、皆んなと2年後の再会を期しました。

25年前の素敵な花博のイベントは終わってしまいましたが、その後 “その種” が「奇跡の同窓会」というイベントを咲かせ続けています。
あの時のそれぞれの思いが、今、大輪ではないですが、それぞれの心の中に咲き誇っています。

また、2年後、笑顔で皆んなに会いたいものです。

25年前の出会いに感謝、です。

Thsnks for ALL.

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 昨日、一昨日、新潟に行ってきました。

11月本番の打合せです。実に30年ぶりです。
東京や西日本は結構仕事関係で行くことは多いですが、北陸方面は富山が北限で、なかなか、新潟へ行くことができませんでした。

30年ぶりでしたが、当時は車で大阪から高速から県道を使っての、来県でした。おそらく8時間くらいかかったと思います。
目的は「ライブハウスツアー」
当時、売り出し中のゴスペルシンガーのキャンペーンの一環です。私はまだ学生でなんでもお手伝いセンターという何でも屋を起業したばかりで、何でもお手伝いしてました。
そこで、ライブツアーの運転手兼楽器運び、使い勝手の良い力持ち君です。

大阪でハイロングのレンタカーを借りて、バックバンドの楽器を積み込んで、メンバーを乗せて出発です。朝一で出発してその日の夜にライブハウスで本番です。本番終わりで、そのまま次の土地ヘ・・・
そのあたりの記憶は定かじゃないですが、無事にライブが終了し、大阪へ向かって走っている時です、車に異変が起こったのは・・・・
バッテリーがあがって、使い物にならなくなったのです。
JAFに電話して、車を引き取りにきてもらい、修理に2時間ほどかかった気がします。

私はアルバイトとは言え、お金をもらっての仕事です。
疲れているメンバーに申し訳ない、とても落ち込んだことを思い出します。

メンバーは私より4つ5つ年上でしたでしょうか・・・
そんな凹んでいる私に気を使って、車が修理される2時間の間、信濃川の河原で草野球をしました。夕暮れが迫る中、微妙に明るすぎるくらいハシャギながら・・・・
20歳そこそこの私の落ち込んでいるのを気にかけてくれたんだと思います。

たった一度の出会いでしたが、本当に素敵なバックバンドメンバーの皆さんでした。

新潟の信濃川を見ながらそんな若かりし頃の失敗を思い出しつつ、一期一会とはそんなことの繰り返しなのかもしれません。

結局、そのゴスペルシンガーとも、バックバンドのメンバーとも、再会していません。

30年も忘れていた出来事が、その土地に行ったことで蘇ってきました。

今回は、飛行機なので、小一時間で行けてしまいます。あの30年前の、8時間の車中旅は小さな私の宝物でもあります。

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  今日、10月14日は、1872年、新橋縲怏。浜間に日本初の鉄道が開業した日。

あれから143年・・・鉄道王国として日本は確固たる地位を築いています。
新幹線はもとより、その到着時間の正確性・事故の少なさなど、日本の誇る交通機関と言えます。

 また最近は海外の旅行客にも人気で、様々な場所の鉄道が注目されています。

富士山を望む東海道新幹線は鉄板人気。その次が北陸新幹線。金沢へ向かうだけではなく、軽井沢、長野、立山アルペンルートの玄関富山など途中下車の楽しみもあり、飛行機のファーストクラスにあたるグランクラスも注目の的。
その他、ワイドビューひだ、近鉄特急、京都嵯峨トロッコ列車、叡山電車きらら、南海「天空」と続く。
(東洋経済ONLINE 2015.10.03)

このようにして見ると海外客だけではなく、日本人にも魅力的な鉄道が実に様々な場所で走っている事がわかります。

単なる移動手段ではなく、鉄道の旅そのものを楽しむ。観光地から観光地に移動するだけではない、昔ながらのゆったりとした旅が楽しめるのも鉄道の醍醐味と言えます。

忙しい現代人に、少しこんな旅を推奨したいと考えるのは私だけではないでしょう。

高齢化が進む日本において、リタイヤした人々がゆったり自由に移動できる鉄道の旅。
飛行機のように大きな荷物は預けて、宿泊先まで届けるサービス、駅からは宿泊先と提携したタクシーで宿泊先の周辺散策、平日なら、なお安価に設定、など鉄道の旅をオリジナル化していくと、地域活性化含めて、その需要は大きく伸びるような気がします。

インバウンドで海外客にターゲットを絞るのも一案ですが、高齢化していく日本国民の癒しの旅を少し考えて見てはどうでしょうか。
鉄ちゃんである私がその企画でもしてみようか、と模索中です。旅の思い出に写真や俳句、などその後にもつながるような楽しい思い出作りを、考えたいものですね。

「鉄道記念日は旅の記念日」になれば、楽しいかもしれませんね。

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 生涯のうち、何度、人は引越しをするのだろうか・・・・

物心ついた幼年期、私は大阪市東淀川区の田園地帯で過ごしていました。1970年代の頃です。

まだ道路はアスファルトになる前、荒地や沼がたくさん点在している市内でも田舎町だったように思います。
高度成長期真っ盛りの時期で、毎年どこかここかで工事中。
その姿は毎年変わっていきました。

いつの頃か、沼で遊ぶこともなく、市営高層住宅が立ち並ぶ住宅街へと変貌していきました。
私の家族も御多分に洩れず、その平屋建てから、高層住宅へ引越ししました。中学生の頃です。
何より嬉しかったのは、自分の部屋を持てたことです。年頃ですから、どうしても部屋に籠りたい頃です。好きな音楽やラジオを聴きながら空想にふけっていたものです。

その後、浪人時代に初めて一人暮らし。賄い付きの新聞配達浪人です。5ヶ月ほどでしたが、4畳半一間での生活はその後の私の人生に大きく影響を与えたことは確かです。

その後は、自宅から大学に通い、次に引越ししたのは、結婚したタイミングです。26歳になっていました。
その後、31歳で和歌山に引越して今に至ります。

やはり引越しのタイミングは進学であったり、就職、結婚という「晴れの日」が多いのでしょうか・・・・

私の場合はプライベートとは別に会社の引越しも頻繁にありました。31歳で創業し、その後20年余、事業拡大・縮小に伴いその都度引越した気がします。

引越することで、様々なものを捨てていきます。
モノだけではなく、それは思い出という切ないモノも含めて・・・・

「放てば、手に満てり」道元禅師の言葉です。

様々な事どもに当てはまりますが、私の解釈は、
“執着をなくす事で得るもの・ことがある“

引越はそのきっかけになることも確かです。
なかなか捨てきれないモノだけではなかく、何かそれまでの経緯などを切り捨て、切り替える機会、それ故にまた得るものがあるということ。

最近、「断捨離」という言葉も流行っています。深い意味がありますが、単に部屋にあるモノを捨てるということでも使われます。本当に人間は欲深いのか、捨てきれない。

引越はモノを捨てるタイミングだけではなく、それまでの生活や人生を変えるキッカケのタイミングなのかもしれません。

ちなみに今日は明治天皇が京都御所から、江戸城(皇居)に入城された日で、「引越の日」らしいです。
どんな引越だったのか、見てみたい気もしますが・・・・
捨てるモノも大層なモノだった気がするなぁ・・・・

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 51年前の今日10月10日、アジア初の夏季オリンピックが開幕。戦後日本の復興を印象づけた大会になりました。2020年、再び東京でオリンピックが開催されます。是非成功して欲しいものです。

この開幕を記念して2000年まではこの日を「体育の日」として長きにわたり祝日として設定されていました。(その後第2月曜日に変更)

この日の印象は“抜けるような青い空”
当然その後のテレビなどで見た印象です。
しかし、その青空こそ、平和への希求をあらわしている気がします。

「空」には表情がありますね。
都会で見る空、田舎で見る空、朝焼け、昼の太陽燦々な空、夕暮れ時の空、曇り空・・・・・・

なんと、空には様々な表情があるんだろうと、思います。
そしてこの空はどこまでも続いているんだろう、
そう考えると浪漫を感じます。

空を飛びたいと思った人間がその夢を叶え、今や飛行機でそれは当たり前になりましたが、いつの時代も「空」はその多彩な表情を見せていたんでしょう。

今日は、「空を見る日」でもあります。

時折、空を見上げて見ると、毎日のいろんな事がちっぽけな事に感じます。

たまのおやすみ、芝生に転んで大空を眺めて見るのもいいかもしれませんね。

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 今やすっかり、影を潜めた「公衆電話」

いざ、公衆電話で電話をかけようとしても設置場所がわからない。まぁ、最近は1年に1度も使わないことがほとんどではないでしょうか・・・
携帯電話(スマホ)の電池も結構長持ちしますし、なかなか公衆電話の必要性がないと言っても過言ではないでしょう。

30年間で約75万台が姿を消した――。
この数字が示すのはNTT東日本、NTT西日本が運営する、公衆電話の数だ。1984年度の93.4万台をピークに、2014年度末には18.3万台まで縮小した。各家庭内にある固定電話の普及はもちろんだが、携帯電話の普及によって、その数は大幅に減少している。(東洋経済ONLINE10月8日)

さもありなん、という結果ですね。
街中で見かけないのも納得する結果です。
しかし、この記事によると、思わぬところでこの公衆電話が増設されているそうです。
正式には「特設公衆電話」というそうです。
災害時に避難所などで通信手段を確保する公衆電話です。
小中学校や、公民館のほか、避難所になり得るオフィスビル、ホテル、鉄道駅、集会所などに設置されているそうです。

よくよく考えてみると確かに携帯電話(スマホ)は便利である反面、集中した際に使えないことは周知の事実で、そんな時のパニック状態は想像に難くないです。
年末年始のタイミングやコンサート会場などで、よく経験することです。

今や、固定電話すらも必要あるかどうかの時代に、やはり「公衆電話」は役割を変えつつ、その存在は必要不可欠何だろうと思います。
災害時の安否確認、情報収集はその身を守るためには絶対必要なことです。携帯電話(スマホ)が不通になった時の人間のパニック状態、携帯電話(スマホ)を忘れた時の不安感。

言い換えればいつも連絡が取れるという錯覚をしている現代人。

昨今、見かけない「公衆電話」の果たす役割はまだまだありそうです。

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昨日、「京都マラソン」の当選通知がメールで届きました。
2014年に24年ぶりに、50歳のフルマラソンを走って以来、今度は2年ぶりのチャレンジです。

毎年、大阪・神戸・京都・東京のマラソンにエントリーはしますが、毎回落選、唯一、2014年の京都にやっと当選し、念願の都市型フルマラソンに参加できました。
本当に、抽選で当選するのは至難の技で、だからこそ、余計に走りたくなるのは人間の心理なんでしょう。

初めてのフルマラソンは、ハワイのホノルルマラソンでした。
創業前に勤めていた会社の社員旅行で行った際に走りました。
制限時間の緩いそれは日本人観光客でいっぱいです。
あの常夏のハワイを夜明け前にスタートし、ダイヤモンドヘッドから見る朝陽には感動しました。

また、マラソンはその経済効果から地域活性化のイベントとして企画されることが多いです。
私がマラソンイベントに携わったのは、広島県尾道から愛媛の今治へ至る「しまなみ海道」が開通する時です。
開通記念イベントとして、100kmスーパーマラソンとして企画されました。コース設定から、給水・給食地点、県警との警備計画、サインの設置場所、設置数など調整事項が非常に多岐に渡ります。大変ですが、それで、人が集まるという意味においては地方活性化の一助になったとは思います。

その後、都市型マラソンの代表的なものが、東京マラソンです。交通規制などおそらく開催に向けては非常に難関があったことは想像に難くありません。当時の石原知事の強力なプッシュが効いたんでしょうか・・・・
とまれ、東京マラソンの経済効果の成功が後の、大阪、神戸、京都、奈良マラソンへと繋がっていくと言っても過言ではないでしょう。

高齢化だけではないのでしょうが、昨今の健康ブームやファッショナブルなコスチュームなども相まって、ランナーは年々増加傾向にあるようです。制限時間の緩和など、ビギナーランナーが手軽に参加できるようになったことも、マラソンチャレンジに拍車をかけていますね。

健康に目を向け、かつ経済効果として意味のあるイベントであるなら、それは喜ばしいことと考えます。都市型マラソンだけではなく、地方でも魅力的なマラソンはたくさんあります。普段走れない場所を走ったり、美味しいものを食べたり、温泉につかったり、マラソンというファクターを通して様々な地域が活性化することは、当時我々イベンター達が願っていたことでもあります。

私も、2年ぶりのチャレンジです。42.195kmは決して簡単な距離ではありません。いかに、日頃から、継続的に走り、鍛えているかが、勝負です。無理せず、マイペースを守りながら、古都・京都を走り抜けたいと思います。

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 中学生の頃、時刻表を読むことが好きでした。

その頃は、当然お金もなく旅行する年代でもなく、まだ幼い少年でしたので、校区外(当時学校が決めていた子供だけで出てはいけない地域)という決まりがあり、今考えるとそれはそれで、我々少年を守ってくれていた気がします。
当時は隣の中学校の生徒と「お礼参りや!」みたいな喧嘩が絶えなかったのも確かで、無用な接触は避けていたのかもしれません。

そんな時代ですから、余計に外の世界への憧れは強かった気がします。
インターネットなど無い時代ですから、情報取得の方法が限られていました。時刻表はそんな閉ざされたモヤモヤ感を打破するツールのひとつでした。
行ったことのない駅を目指して、時刻表で旅を作っていきます。乗り換え時間、駅弁はどこの駅で購入、待ち時間の間にトイレへ・・・などと、まさしく時刻表とにらめっこしながら、まだ見たことのない、行ったことのない、車窓の風景や駅舎を思い浮かべていたものです。

中学生ですから、ただひたすら、行ったことのない、見たことのない世界への憧れがそんな旅に想いを傾注してたのだろうと思います。
それは、叶わない片思いのようなもので、想いは強いけれども、どうしようもない、もどかしいそれに似ているかもしれません。

子供が大人へなる道のりの中で、脱皮すべき悶々とする時期、まさしく思春期とはそんな時期かもしれないと、思い返すとそんな気がします。

大人になって、ある程度自分の自由な時間とお金が有るにも関わらず、日々の忙しさにかまけて、中学生時代の想いを忘れてしまっています。
車窓を見る余裕や、駅舎でちょっと休憩するとか、
各駅停車ができない時代に生きているような気がします。

できれば、もう少し、時刻表片手にあの頃の憧れを抱きながらワクワクした旅を実際にしてみたいと思います。
時刻表にはそんな楽しい旅がいっぱい詰まっています。
あの頃は東北でも、北海道でも九州でも、また四国の山奥でも線路が繋がっている所へは自由に行っていました。

そう、あの頃憧れていたのはきっと自由なんでしょう。
この校区外から出たいという自由な世界に憧れていた、それが時刻表の旅だったんだと思います。

今日は10月5日は、時刻表の日だそうです。たまには、ネットで時刻表を調べるのではなく、時刻表の本で自由な旅を楽しむのも、いいかもしれませんね。

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 秋雨が降りしきる中、朝夕もすっかり過ごしやすくなりました。知らぬ間に静かに、秋がやってきた、そんな感じですね。

つい先日までTシャツで過ごしていたのに、上着がないと少し、寒く感じる季節です。

衣替えとはよく言ったものです。半袖のシャツと長袖のシャツを入れ替えて来る冬に備える季節です。

10月1日は、日本酒の日、日本茶の日、コーヒーの日だそうです。
それぞれに、理由はあるんですが、なんか面白いですね。

料理やシチュエーションによって変わる飲み物。それによって気分も変わりますね。
また、飲み物の持つイメージによって、シーンがふと浮かんできますね。

私のそれは、日本酒は、屋台で、おでんやを突きながら、熱燗をキュッとやるイメージ。
最近は再び日本酒ブームで冷酒で飲む女性も増えてきましたので、私の思っているイメージとは随分変わってきましたが・・・・・。

日本茶は和菓子が似合いますね。茶室で頂くというよりは、縁側でお団子と一緒にいただく感じ、とは言え、最近の家には縁側がないので、これも少しノスタリジー過ぎるかもしれませんね。

コーヒーはヒゲのマスターがいる、カウンターだけの喫茶店で、サイフォンで香りを楽しみながらいただくコーヒーがいいですね。

それぞれの時代にそれぞれのイメージがありますが、それも年代を映し出す鏡なのかもしれません。

衣替えは季節に応じて着るものを変えるだけではなく、新しい季節への順応への心構えなのかもしれません。

飲み物ひとつで、心構えも、生活シーンも変わっていきます。
年齢とともに、そのシーンも様々です。
季節を楽しむように、そんなワンシーンを楽しめるように暮らしたいものです。

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