Category Archives: 中野ヒストリー

思えば、学生時代に学生企業なるものをやっていたこともあり、将来的には独立したい、と思っていた気がします。
親父が大工で一匹狼的に生きていた事も影響されていたと思います。
父方の祖父は、漁師、曾祖父は宮大工、母方の祖父は、満州で事業家・・・・・そんな意味でサラリーマンは誰もいない家系だったのかもしれません。

そして、会社をやると決意した1994年冬、お世話になった、会社を1995年1月で退社する事になりました。

弱冠31歳での起業です。

但し、その後の紆余曲折は想像すらできませんでした。

ある意味、夢膨らませての、会社設立です。

応援いただいた方々が周りに居ましたが、それなりに、ときめいていた、日々ですね。

社名はどうしよう、会社の備品は、ロゴは、・・・・・・等、不安よりも期待が大きかった気がします。

そして、企業にとっての始業式が2月1日に決まって、そこからのスタートを待つばかりの時に、
あの「阪神大震災」が起こりました。

誰も想像すらしていない、神戸を震源とした、大地震です。

新しいスタートがとんでもない、波乱と不安に押しつぶされそうな感じでした。

ただ、後戻りのできない状況の中での企業出発です。

阪神大震災における不安が関西、日本に重く覆い被さっている1995年2月、ニューズは小さな第一歩を刻んだのです。(続)

写真: 20年目の感謝竏窒Q</p>
<p>思えば、学生時代に学生企業なるものをやっていたこともあり、将来的には独立したい、と思っていた気がします。<br />
親父が大工で一匹狼的に生きていた事も影響されていたと思います。<br />
父方の祖父は、漁師、曾祖父は宮大工、母方の祖父は、満州で事業家・・・・・そんな意味でサラリーマンは誰もいない家系だったのかもしれません。</p>
<p>そして、会社をやると決意した1994年冬、お世話になった、会社を1995年1月で退社する事になりました。</p>
<p>弱冠31歳での起業です。</p>
<p>但し、その後の紆余曲折は想像すらできませんでした。</p>
<p>ある意味、夢膨らませての、会社設立です。</p>
<p>応援いただいた方々が周りに居ましたが、それなりに、ときめいていた、日々ですね。</p>
<p>社名はどうしよう、会社の備品は、ロゴは、・・・・・・等、不安よりも期待が大きかった気がします。</p>
<p>そして、企業にとっての始業式が2月1日に決まって、そこからのスタートを待つばかりの時に、<br />
あの「阪神大震災」が起こりました。</p>
<p>誰も想像すらしていない、神戸を震源とした、大地震です。</p>
<p>新しいスタートがとんでもない、波乱と不安に押しつぶされそうな感じでした。</p>
<p>ただ、後戻りのできない状況の中での企業出発です。</p>
<p>阪神大震災における不安が関西、日本に重く覆い被さっている1995年2月、ニューズは小さな第一歩を刻んだのです。(続)

【決断の時】は、予期せぬ時に予期せぬ人からやって来る。

そんな気がします。

1994年11月、ある人から一本の電話・・・・・
「ビールでも呑めへんか」そんな気軽な誘いでした、

その人がキーです。7年近く会っていない人から突然の電話です。

“なにかあるな?”とは常識的には感じますよね。

でも、基本的に私は、断らない・・・・・・自分自身の判断材料がないのに、断る理由がない。

だから、自分の耳で・目で、頭で確認する。これは、物心付いたときからの基本的なスタンス。

その人と会いました。梅田のグランドビルでした。
なんか、違和感を感じた気がします。

そして「会社作るから、やらへんか?1週間後に返事頂戴!」

ひと回りほど違う、その人は「ビール呑めへんか?」と同じくらいのテンションで私に言いました。

“ちょっとととと、待ってくださ”と心に中では感じつつ、きっとその瞬間、やる!やりたい!って決めてた気がします。

ニューズ設立の瞬間です。
今でも梅田グランドビルからの夜景を思い出します。

あれから、20年弱・・・・・・
人に歴史有り、会社に歴史有り・・・・・・・

20年目に向かうにあたり、感謝と決意の1日が、2月1日です。

(続)

写真: 20年目の感謝竏窒P</p>
<p>【決断の時】は、予期せぬ時に予期せぬ人からやって来る。</p>
<p>そんな気がします。</p>
<p>1994年11月、ある人から一本の電話・・・・・<br />
「ビールでも呑めへんか」そんな気軽な誘いでした、</p>
<p>が</p>
<p>その人がキーです。7年近く会っていない人から突然の電話です。</p>
<p>“なにかあるな?”とは常識的には感じますよね。</p>
<p>でも、基本的に私は、断らない・・・・・・自分自身の判断材料がないのに、断る理由がない。</p>
<p>だから、自分の耳で・目で、頭で確認する。これは、物心付いたときからの基本的なスタンス。</p>
<p>その人と会いました。梅田のグランドビルでした。<br />
なんか、違和感を感じた気がします。</p>
<p>そして「会社作るから、やらへんか?1週間後に返事頂戴!」</p>
<p>ひと回りほど違う、その人は「ビール呑めへんか?」と同じくらいのテンションで私に言いました。</p>
<p>“ちょっとととと、待ってくださ”と心に中では感じつつ、きっとその瞬間、やる!やりたい!って決めてた気がします。</p>
<p>ニューズ設立の瞬間です。<br />
今でも梅田グランドビルからの夜景を思い出します。</p>
<p>あれから、20年弱・・・・・・<br />
人に歴史有り、会社に歴史有り・・・・・・・</p>
<p>20年目に向かうにあたり、感謝と決意の1日が、2月1日です。</p>
<p>(続)

1995年、阪神淡路大震災が1月17日早朝に起こりました。本当に、今もあの瞬間を忘れることは、ありません。

その前年の秋に和歌山に引越、かつ冬にある人の引っぱりで、「会社設立・独立」を決意。

31歳のタイミングでした。

業界に入って10余年目のチャンスでした。

1995年1月事務所がキタにあった関係で「堀川戎」さんに参拝。これから始まる「会社」の商売繁盛を祈念してました。

まさしく2月から創業スタートを待つばかり、の時に起こった震災。

予定されていた、仕事はすべてストップです。

暗澹たる思いからのスタートを思い出します。

その際に、

励みななったというか、信じられないことが、ひとつ。
事務所の中は、震災でぐちゃぐちゃになっていた中、立てかけてあった、「堀川戎の笹」だけがしっかり倒れずに、あったのです。

私は密かに「奇跡の笹」と呼んでいます。

時として、世の中には、見えない何かの力で起こるべきことがある気がします。

「奇跡の笹」はその後のニューズでの出来事に対して、「何が起こっても、諦めない」ということを示唆してたのかもしれません。

戎さんの時期になると、あの震災と奇跡の笹を思い起こします。

あれから、20年、本当に毎年「奇跡の笹」をお返し、お参りできることに、感謝するばかりです。

写真: 「奇跡の笹」</p>
<p>1995年、阪神淡路大震災が1月17日早朝に起こりました。本当に、今もあの瞬間を忘れることは、ありません。</p>
<p>その前年の秋に和歌山に引越、かつ冬にある人の引っぱりで、「会社設立・独立」を決意。</p>
<p>31歳のタイミングでした。</p>
<p>業界に入って10余年目のチャンスでした。</p>
<p>1995年1月事務所がキタにあった関係で「堀川戎」さんに参拝。これから始まる「会社」の商売繁盛を祈念してました。</p>
<p>まさしく2月から創業スタートを待つばかり、の時に起こった震災。</p>
<p>予定されていた、仕事はすべてストップです。</p>
<p>暗澹たる思いからのスタートを思い出します。</p>
<p>その際に、</p>
<p>励みななったというか、信じられないことが、ひとつ。<br />
事務所の中は、震災でぐちゃぐちゃになっていた中、立てかけてあった、「堀川戎の笹」だけがしっかり倒れずに、あったのです。</p>
<p>私は密かに「奇跡の笹」と呼んでいます。</p>
<p>時として、世の中には、見えない何かの力で起こるべきことがある気がします。</p>
<p>「奇跡の笹」はその後のニューズでの出来事に対して、「何が起こっても、諦めない」ということを示唆してたのかもしれません。</p>
<p>戎さんの時期になると、あの震災と奇跡の笹を思い起こします。</p>
<p>あれから、20年、本当に毎年「奇跡の笹」をお返し、お参りできることに、感謝するばかりです。

東京オリンピック招致決定はイベント業界的には久々の明るい話題と言えるかもしれません。
私がこの業界にお世話になった頃は、バブル全盛期でしたので、毎日、どこかでイベントが開催されていた気がします。
博覧会も至る所で、開催され、博覧会が地方活性化の起爆剤になっていたことも、確かです。

そのバブル最後の花が、1990年大阪鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」かもしれません。

今の若い人は「花博」とは「淡路島の花博」と思っているかもしれませんが・・・・・

今から23年前です。

まだ銀行も合併前でしたから、様々な銀行グループがパビリオンを出展してました。

我々がお世話になったのは、当時大和銀行(現りそな銀行)を中心に、関西で生まれた企業40社の「大輪会」というグループでした。

「大輪会 水のファンタジアム」というパビリオンでした。

世界初の水をコンピューター制御した、水のオーケストラが織りなすウォーターショーです。
音楽も素晴らしく、当時としては花博で、1位2位を争う人気パビリオンでした。

祭りの後の静けさではないですが、その後の失われた20年で、すっかり日本経済は停滞してしまいました。当時の企業も合併などで、すっかり様変わりしてしまいました。

しかし、あの頃一緒に働いていた仲間との、同窓会が翌年から、毎年行なわれています。(現在は2年に1回の隔年開催)
23年間、途切れること無く、続く大輪会のパビリオンの「同窓会」を私はひそかに「奇跡の同窓会」と呼んでいます。

5年ぶりとか、10年ぶりとか、20年ぶりの同窓会はあるかもしれませんが、この同窓会は基本毎年(2年に1回)行なわれています。

そして、今年も先日10月12日に開催され、38人の方々が集まりました、23年の月日が平均年齢をあげていますが、面影をたどれば、やはり23年前のその姿です。

そして、2年後の再会を期して、またそれぞれの生活の場へ戻っていきました。

出会いは奇跡です。そして、その出会いの奇跡を紡いでいくのも、また奇跡なのかもしれません。

一期一会だけれども、再会また嬉し・・・・・

出会いは宝。

写真: 「奇跡の同窓会」竏窒P</p>
<p>東京オリンピック招致決定はイベント業界的には久々の明るい話題と言えるかもしれません。<br />
私がこの業界にお世話になった頃は、バブル全盛期でしたので、毎日、どこかでイベントが開催されていた気がします。<br />
博覧会も至る所で、開催され、博覧会が地方活性化の起爆剤になっていたことも、確かです。</p>
<p>そのバブル最後の花が、1990年大阪鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」かもしれません。</p>
<p>今の若い人は「花博」とは「淡路島の花博」と思っているかもしれませんが・・・・・</p>
<p>今から23年前です。</p>
<p>まだ銀行も合併前でしたから、様々な銀行グループがパビリオンを出展してました。</p>
<p>我々がお世話になったのは、当時大和銀行(現りそな銀行)を中心に、関西で生まれた企業40社の「大輪会」というグループでした。</p>
<p>「大輪会 水のファンタジアム」というパビリオンでした。</p>
<p>世界初の水をコンピューター制御した、水のオーケストラが織りなすウォーターショーです。<br />
音楽も素晴らしく、当時としては花博で、1位2位を争う人気パビリオンでした。</p>
<p>祭りの後の静けさではないですが、その後の失われた20年で、すっかり日本経済は停滞してしまいました。当時の企業も合併などで、すっかり様変わりしてしまいました。</p>
<p>しかし、あの頃一緒に働いていた仲間との、同窓会が翌年から、毎年行なわれています。(現在は2年に1回の隔年開催)<br />
23年間、途切れること無く、続く大輪会のパビリオンの「同窓会」を私はひそかに「奇跡の同窓会」と呼んでいます。</p>
<p>5年ぶりとか、10年ぶりとか、20年ぶりの同窓会はあるかもしれませんが、この同窓会は基本毎年(2年に1回)行なわれています。</p>
<p>そして、今年も先日10月12日に開催され、38人の方々が集まりました、23年の月日が平均年齢をあげていますが、面影をたどれば、やはり23年前のその姿です。</p>
<p>そして、2年後の再会を期して、またそれぞれの生活の場へ戻っていきました。</p>
<p>出会いは奇跡です。そして、その出会いの奇跡を紡いでいくのも、また奇跡なのかもしれません。</p>
<p>一期一会だけれども、再会また嬉し・・・・・</p>
<p>出会いは宝。

今年もその季節がやってきました。
「奇跡の同窓会」

これは、1990年に開催された、「国際花と緑の博覧会 大輪会 水のファンタジアム」のコンパニオンそして事務局員、スタッフの同窓会です。

あれから、23年の時が過ぎてもなお、こうして同窓会を開催しています。
当初は毎年開催でしたが、10年目あたりから、2年に1度の開催になりますが、20年以上続いているというのは、本当に奇跡としか言いようがないですね。

私にとっても、思い出深いイベントのひとつですが、終わってもなお、こうして集まれる機会を作ってもらっている、また実際毎回50人以上の方が参加しています。

花博は6ヶ月の長丁場のイベントでしたが、最近はなかなかそんなイベントも減ってきていますし、効率ばかりを求めているので、終わってから、集まろうというところまで、団結心も芽生えにくいのが実情ですね。

イベントはお客様を喜ばすのが一義的な目的ですが、同時にスタッフも同じように心から喜べるものになった時に、成功と言えるのではないでしょうか・・・・・・

「奇跡の同窓会」何とか参加したいものです。

写真: 「奇跡の同窓会」</p>
<p>今年もその季節がやってきました。<br />
「奇跡の同窓会」</p>
<p>これは、1990年に開催された、「国際花と緑の博覧会 大輪会 水のファンタジアム」のコンパニオンそして事務局員、スタッフの同窓会です。</p>
<p>あれから、23年の時が過ぎてもなお、こうして同窓会を開催しています。<br />
当初は毎年開催でしたが、10年目あたりから、2年に1度の開催になりますが、20年以上続いているというのは、本当に奇跡としか言いようがないですね。</p>
<p>私にとっても、思い出深いイベントのひとつですが、終わってもなお、こうして集まれる機会を作ってもらっている、また実際毎回50人以上の方が参加しています。</p>
<p>花博は6ヶ月の長丁場のイベントでしたが、最近はなかなかそんなイベントも減ってきていますし、効率ばかりを求めているので、終わってから、集まろうというところまで、団結心も芽生えにくいのが実情ですね。</p>
<p>イベントはお客様を喜ばすのが一義的な目的ですが、同時にスタッフも同じように心から喜べるものになった時に、成功と言えるのではないでしょうか・・・・・・</p>
<p>「奇跡の同窓会」何とか参加したいものです。

花博が終わって、代理店の方々との信頼関係も厚くなり、その後は、某シャッターメーカーの展示会の企画、工場の竣工記念式典、本社竣工記念や、某自動車メーカーのショールーム開設企画、など・・・・・会社としては、順調に仕事をこなす日々が続いていました。

が、

世間はそうではありませんでした、博覧会ブームも去り、バブル崩壊で、どの業界も迷走し始めていました。

我々の業界も、ご多分に漏れず、徐々に仕事が減少していきます。そうすると、どうなるか・・・・やはり仕事の取り合いになります。企画力だけではなく、予算も下がります。余裕がなくなってきます。

博覧会が開催されると、雨後の筍のごとく、小さな会社ができますが、博覧会が終わると、バブルが弾けるようにそんな会社も雲散霧消していきます。逆に言うと、業界的に会社を作りやすく、また無くしやすいと言えるかもしれません。

ある意味個人でもできる業界でもあります。

また、その頃は一般的にインターネット普及前夜のような状況でしたが、・・・・

インターネットの普及が世界の構造を変えたのは、今や当たり前ですが・・・・

その時には、これほど業界そのものの構造が変わるとは思ってもみなかったですね。

そんなインターネット普及前夜の1994年11月に私にとっての転機が訪れます。

 

まぁ、今思うと、晴天の霹靂でした。

 

インターネット普及前夜は、ニューズ誕生前夜でもあります。(続)

184日間の開催中、我々、催事チームはパビリオンの内庭ステージで、ほぼ毎日イベントを実施していました。もともとは、行列でお待ちいただいているお客様に「待ち時間」を感じさせないための、ホスピタリティイベントです。

なので、実に色んな工夫を凝らしていました。

入場時には、ポカリスエット、ジャワティをお客様全員に飲んで頂くサービスや、マスコットキャラクターてんまくんの着ぐるみとの写真撮影サービスなど・・・・・

開幕時はオープンウィークとして、シンセサイザー演奏にシャボン玉飛翔ショー、企業の日には、ヤン坊・マー坊がやって来たり、合唱団が歌ったり、桂雀々さんのトークショーがあったり、シャンソン、マリンバ、七夕には彦星と織り姫の衣装に身にまとった演者さんが、お琴演奏をしたりと、実に様々なイベントが開催されました。

写真は、8月1日の水の日に開催した、氷柱彫刻のてんまくん。その場で、アイスカービングの職人さんが作ったものです。

この年は猛暑だったせいか、このイベントは多くのマスコミにも取り上げられました。

とは言え、様々なトラブルもありました。雨、風など自然現象でのイベント中止など。

そして、184日間のイベントも無事終了し、1990年の夏が終わりました。

あれから、23年・・・・・・・・

その当時の事務局員、スタッフ、コンパニオンさん・・・・いまだに同窓会が続いています。当初は、毎年1回、11年目からは2年に1回、当時のコンパニオンさんが主催してくれています。

私はこれを「奇跡の同窓会」と呼んでいます。

単なる、あの時の感傷だけでは続かないですね・・・・・・いかに、一致団結したイベントであり、パビリオンかがわかります。

「奇跡の同窓会」の案内はがきが今年も届きました。

そんなイベントをこれからも創っていきたいものです。

 

 

「花博」は日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した、博覧会になりましたが、

実は、華やかに開幕したんですが、当初から結構トラブル続出でした。他館でもそうですが、リハーサルもしっかりやってはいたんですが、なかなかうまくいきません。

当館では、水を扱うショーだけに、やはりハードトラブルは結構ありました・・・・

ですが、テクニカルスタッフの頑張りで、徐々に安定し始めると、もともとショーそのものは素晴らしかったので、アット言う間に人気パビリオンになりました。整理券を求める方々で行列が毎日・・・・・お客さんに、事故がないように、細心の注意を図りながらの運営になりました。人気がないのも困りますが、ありすぎるとその分お客様への配慮が大変です。また、来賓の調整も大変です。

そんな感じで事務局としては、嬉しい悲鳴で、ショー、スタッフ、お客さまと三位一体の、素敵なパビリオンになりつつありました。

すべては、このショーです。

http://www.youtube.com/watch?v=lDNBLs5mih8&feature=player_detailpage

 

 

 

1989年、時にバブル崩壊の陰が忍び寄っていたと思いますが、大阪の業界的には、翌年の“花博”バブルで沸き返っていました。

まさしく、当時は博覧会ブームで、様々な地域で地方博含めて、開催されていました。

国際博となると、その規模も内容も違います。関西中の業界関係者は「その時」に向けてラストスパートをかけていました。

私は、「40社の企業の日」の企画打合せのため、参加企業40社回りをしていました。また、事務局主催のイベントの企画も合わせて考える・・・・・追いかけられるというのは、こういうことと、感じながら必死にこなしていました。

各企業さんには、概要説明から始まり、その意義、そして「企業の日」に出すイベントのリサーチ・・・・・単純に1日1社で40日かかります・・・・・

アポ取りから、日程調整、そして打合せ資料作りと、多忙な日々を過ごしていました。当然、パソコンじゃなく、ワープロの時代です。資料作りとっても、時間がかかります。メールも無い、FAXの時代・・・・・何もかも、そのスピードです。

 

そんな、準備期間も、「アッという間に」過ぎていよいよ会場入りです。知らぬ間に常駐スタッフになっていました。その日から、6ヶ月出向扱いです。通勤は花博会場のパビリオンです。その間、大きな共同体の中での生活が始まります。

 

1990年4月1日、賑やかに「国際花と緑の博覧会」は開幕しました。

 

1990年4月から、大阪鶴見緑地で開催される、通称「花博」への出向は確定してた、前年1989年からは、その準備で、てんやわんや、です。

40社からなる大輪会から、出向でコンパニオンが選ばれるとともに、一般公募でも面接を経て、合わせて、80名のコンパニオンが勢揃いです。マナー、接客などの研修をへて、1年前決起大会など、本番へ向かって様々な行事、などが重なりあいます。

これぐらい大きなプロジェクトになると、事務局そのものが会社組織のようなものです。総務、渉外、接遇、広報、運営、など様々なセクションでの動きになります。まだ若かったとは言え、大手広告代理店の担当者とタッグを組んで、まずは、組織の中でのポジションをしっかり固めないといけません。クライアント、その筋の方々、何たって、40社すべてがクライアントです。粗相はできません。コンパニオンも出向してるということは、クライアント筋・・・・・・・

なかなか、実は、厄介です。ただ、この大きなプロジェクトを動かすとなると、確実にチームワークが問われます。

館長以下、事務局員ばかりではなく、テクニカルスタッフ含めて、一致団結していかなければ、この長丁場は乗り切れません。

事前準備から、我々の闘いは始まっていると言ってもいいでしょう。

1989年、私は大輪会「水のファンタジアム」の催事ディレクターに任命されました。楽しくも苦しい、充実した日々の始まりです。

1990年は、ある意味、私のイベント業界での最初のエポックメイキングな年になりました。世間では、まだバブルが弾けるとは、考えにくい頃、大阪で1970年以来の国際博覧会が開催されました。

Wikipediaより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

国際花と緑の博覧会(こくさいはなとみどりのはくらんかい、英:The International Garden and Greenery Exposition,Osaka,Japan,1990)は、大阪府大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日ツꀀ-ツꀀ9月30日)で行われた博覧会国際事務局ツꀀ(BIE) 認定の国際博覧会であり、また国際園芸家協会(AIPH)の大国際園芸博覧会でもある。会場面積は約140haで、略称は「花の万博」「EXPO’90」。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

私は関西で生まれた企業40社の企業体「大輪会 水のファンタジアム」というパビリオンの催事ディレクターという立場で仕事をさせていただきました。

前年の準備から考えると2年にわたる、「大プロジェクト」でした。

その間の出来事などを、追々お話していこうと思います。

 

 

1989年1月、社会人2社目のスタートです。東京に本社がある会社でしたので、現地採用の私以外は東京本社からのスタッフです。何かと、やり方、考え方、進め方が違うので戸惑っていましたが、前社でのチャレンジング精神のおかげで、臆すること無く、こなせた気がします。

東京発の仕事は、やはり悔しいけれども全国区です。

東京・名古屋・大阪・福岡・札幌と、あるペットフードメーカーのバイヤーさんへの新製品発表会で全国を回りました。仕事はもとより、各地での飲み会が楽しみで、それはそれは、遊びましたね・・・・・・札幌ラーメン食べた次の日は博多ラーメンでしたから・・・・・

その後も、鈴鹿サーキットでのF1レースでのプロモーションや、Jリーグ横浜マリノスのプロモーション、こどもクッキングコンテストなど、大阪だけではなく、全国飛び回ってた気がします。

徐々に、仕事も任せられるようになってくると、JOB(案件)を自分が制作推進していくことになっていきます。多くは、取引先としては、大手の広告代理店さんの担当と推進していきます。

クライアント(スポンサー)は主催者とも言えますし、お金を出している所とも言えます。例えば、ラーメンのメーカーさんであったり、車のメーカーさんなどですね。

広告代理店はそのスポンサーさんの製品(商品)をどのように世間に知らしめ、かつ販売促進するかを、様々な媒体を使って推進していきます。

我々は、セールスプロモーション(販売促進)活動ということになります。

媒体とは、簡単に言えば、テレビCM、ラジオCM、新聞広告、雑誌広告、インターネット広告、その他、駅ばり、屋外広告、電車の中刷りなどなど・・・・・・です。

セールスプロモーションとは、街頭キャンペーンや展示会出展、パーティ企画、講演会、シンポジウム、表彰式など、媒体以外で集客や購買促進、認知度アップ、試飲会などを行なうことです。

そんな中で、案件推進を任せられてくると、今までのやり方、立ち位置ではどうしても処理できないことがたくさん出てきます。

コスト管理、スケジュール管理、キャスティング管理です。今までは与えられていたことをこなすだけだったのが、自分自身で考え管理していかなければなりません。

ヒトが、ある瞬間に脱皮するときは、120%以上の仕事を与えられたときなんでしょう。1989年は、自分自身が大きく脱皮するタイミングの年だった気がします。

 

大学を卒業して就職した会社には、結局2年弱しか在籍しなかった。ただ、その2年間では、本当に様々な経験をさせていただいた。

「小石でも、拾い上げるとその裏に仕事なんて、どこにでも落ちてるよ・・・」当時の社長はよく私に、言ってた言葉です。仕事は選ばなければ、あるもんだ。まぁバブル時代ということもありましたが・・・・・・

というより、今は、その言葉の裏には、「やったことのない仕事でもチャレンジするんだよ」という意味に感じます。その会社は小さかったけれども、常にチャレンジングでした。ペーペーの私を運営リーダースタッフとして50日間も任せたり、その他にも映像編集の仕事や、書いたことの無い台本書きや、当時まだ一般的ではない「ワープロ」を打たせたてもらったり・・・・・・

“やったことがないから、できない”という発想は全くない社長でした。その後の、独立後の私の営業姿勢の原点かもしれません。

ただ、色んな理由の中で、退社をすることになりました。

若気の至りだったんでしょう。その時は、その後のことは全く考えてなかったくらいですから。

ただ、まだまだ、バブル時代でしたので、業界的には人材不足の時代だったんでしょう。「やめる」と聞いた先輩から、お誘いがありました。

近しい会社だと、何かと、前の会社に迷惑がかかりそうな気がしてましたが、幸いそのタイミングに東京本社のPR会社が大阪支社を開設するということだったので、それならば、ある意味新しいフィールドで働けるんじゃないか・・・・

 

折しも昭和天皇が崩御され、イベントというイベントがすべて自粛していた、1月に私にとって、社会人2社目がスタートしたのです。

 

 

夢工場は当時インテックス大阪1号館から5号館までを使ったイベントです。

夏休みの開催でしたし、関テレではバンバンコマーシャルしてたので、それはそれは大人気でした。


 

中でも、私が受け持っていた「はれときどきぶた」パビリオンは毎日、長蛇の列です。中に、100名(だったと思います)くらいのシアターがあり、その前後に様々な体験・体感アトラクションがありました。入場制限をしながらの誘導でしたので、運営スタッフの意気のあった対応がとても重要でした。

 

今考えてもチームワークはバツグンだった気がします。

それぞれのセクションでそれぞれの役割を十二分にこなしてくれたと、今更ながら感心します。運営スタッフはほとんどが学生さんでしたから・・・・・

そして、事件が起こったのです。もう26年も前ですから時効でしょうが・・・・・

最終日、「はれぶた」パビリオンを楽しみにして来られたお客様がいました。が、残念ながら、終了までに入場制限をせざる得ません、これは毎日のことです。イベントに終了時間があるように、こなせるタイミングの限界時間で入場をお断りせざる得ないのです。ただ、その日は「夢工場」そのものの最終日です。二度と入れないのです。

お客様も粘りましたが、我々運営スタッフとしても、断腸の思いなんですが・・・・・そこはある程度割り切らざる得ません。

そして、運営スタッフがお客さんに殴られました。大騒ぎです。私は運営リーダーとして、事務局を通して抗議をしたんですが、そのアルバイト君が「中野さん、いいですよ、お客さんの気持ちもわかるし、そして何よりもここで大騒ぎしたら、折角のはれぶたスタッフに迷惑かけますから・・・穏便に行きましょう」

対処の仕方が、本当に良かったかどうかは、議論の余地がありますが・・・・・・

その彼の言葉がすべてを現しています。

このイベントは決して一人で完遂できたものではなく、それぞれのスタッフが持ち場だけじゃなく、自分たちのパビリオンという意識で働いてくれた結果だと、今でも思います。

イベントの難しさ、楽しさ、そして素晴らしさを知った50日間でした。

今でもインテックス大阪に行くと「キュン」としてしまうのは、あの時の

彼の言葉を思い出すときです・・・・・

 

 

インド・ネパール17日間放浪記には、少しまだオチがあり、結局、大阪空港に無事着いたんですが、ロストバーゲージで、荷物はどこへやら・・・・・・2週間後に自宅に帰ってきましたが。

 

まぁ、そんなことで、学生時代とケジメをつけて、さぁ縲怐Aということで。

就職先の会社は手ぐすねして待っていたようです。

そして目出たく、社会人初めての仕事が「アメリカンジュークボックス」という、アメリカはダラスで公演されていたミュージカルの日本公演のバックステージスタッフです。言い方はかっこいいですが、アメリカスタッフの御用聞きですね。ケビンという舞台監督のアシスタントとして、多分2週間くらいの公演だったと思いますが、ホールに通い詰めです。

リハーサルでは、聞き取れない英語が飛びかう中、必死に道具を運んだり、大道具を操作したり、小道具をスタンバイしたり・・・・・・演者さんが舞台でスムーズに演じられるように、いかに効率よく、効果的に短時間でスムーズにスタンバイをするか・・・

公演していたホールの近くにそのスポンサーさんの新しいアメリカンチックなレストランができるということの記念公演のようなものでしたので、終わっては、毎日そのレストランで飲んで踊って、、、なんたって陽気なヤンキーさんですから。そうなると、公演中もチームヤンキーで仲良く楽しく、、、、、、、、英語はわからずも、ボディランゲージでコミュニケーションは大丈夫。

本当に楽しかったなぁ・・・・社会人最初のイベントがミュージカルのバックステージスタッフ、って考えたらものすごく光栄なことでしたね。本当に、みんなイイやつらでしたし、日本のスタッフにも助けられました。

ただ、ペーペーの頃ですから、「弁当の中身がいつもと一緒」「弁当持ってくるのが遅い」「打合せで、聞いてないことはできない」「無理」「できない」「いやだ」・・・・・・・・・・テクニカルスタッフには嫌という程、いじめられました。いや訂正、いじめてたのではなく、彼ら理論でいくと育ててやってるんだ・・・ということでしょう。まぁ、ほんと、理不尽でしたよ・・・・でもそんな理不尽さの中から、プロとしての考え方、姿勢を学んだと思います。今だからわかることです。

やはり、社会人なりたてで、学生気分が抜けきってなかったんでしょう。それを見透かされてた気がします。

この2週間の現場は本当に、頭打ち、悩み、悔しく・・・でも愉しい仲間との舞台作りを体験させていただいたと、感謝しています。