Category Archives: 業務実績

25年も会社をやっていると、ピンチばかりだった気がします。
会社員であった頃は、仕事は与えられるものだった気がします。
ある意味、給料日には給料が振り込まれていて、当たり前。
まだ、ペーペーだったこともありますが、先輩や上司に頼まれた仕事をこなす。
「なんとか自分の力で仕事を取りたい」とは思っていましたが、現実はまた別。
まぁ、給料をいただきながら、仕事を覚えさせていただいたなぁと、今更ながら感謝です。
31歳で独立して、今度は仕事を受注しに行かないといけない。
黙って、机の前に座っていて仕事が来るほど、甘い業界ではない。
実績を携えながら、「自分に何ができるか」を伝えながら、営業するしかない。
取引先の担当が飲みに行く店で、偶然を装おって、待ち伏せしたこともある。
「困っていることはないか」を探りに行く。
この業界、普通に営業したからといって簡単に受注できるものでは、ない。
また、誰もができる仕事は、価格競争になる。
信用されていても、信頼されるまでは、時間がかかる。
やっと、信頼されて、仕事を受注しても、
担当者が転勤、定年、部署転換などで、仕事がなくなることもしばしば。
結局は、誰も手出しできない、業種・仕事内容を狙うしかない。
逆にいうと、“誰もしたくない”“ややこしい仕事や、大変そうな仕事”を積極的に取りにいくしかない。
世に言う、レッドーシャン市場ではなく、ブルーオーシャン市場を狙うと言うこと。
いずれにせよ、状況に左右されにくい仕事を、どう受注するか、
全て、うまくいくわけはありません。
しかしながら、日頃から「楽な仕事」「簡単な仕事」だけを狙いにいくと、
いざと言う時には、なかなかうまく行きません。
世の中の様々なことで、翻弄されることは、致し方ない気もします。
技術革新で、なくなっていく業種もあります。
また、これからAIなどで世の中の仕組み・様相も変わっていくに違いありません。
今回は、新型コロナウィルス感染で、パニックになっていますが、これを糧に
今後を再考していかねばなりません。
人間には、知恵があるはずです。
しかしながら、どこもここも、臨時休館、
このままの状態が続くと、息切れする人、続出するぞ・・・・・
弊社ニューズが誕生して、25年が過ぎていた。
「あっという間」と言うのが本当のところです。
準備期間から言うと、1994年10月頃だったろうか、ある会社の社長から、
「もう一つ会社を作るけど、中野くんやれへんか?」と言う何気ないけれども
決断のいる言葉をいただいたところが出発点。
大学時代に学生企業をやっていた経験もあり、将来は独立する!とは思っていたけれども、現実は厳しく、独立資金もなく、悶々としていたことは確か。
そんな時に、天使の囁きか悪魔の囁きか、「会社設立のチャンス」を思わぬところから、いただいた。
結果、8年間のサラリーマン生活に終止符を打って、1995年2月から、経営者として出発。右も左も分からない、銀行とどのように付き合う、税理士さんの視点と事業者の視点の違い。社員の立場とその思い等、わからないことばかりでのスタートでした。
最初のターニングポイントは、一緒に会社を立ち上げた、元社長との決別です。
ニューズを立ち上げた時は、社長はその方。私は、専務取締役としての役職。
実質的には、私がニューズを動かしてはいましたが、結局4年目1999年に、その社長は、「ニューズ」を閉めると言うことに、・・・・
株を5%しか持っていない私に決定権はありません。
少なくとも、46%の株を買い取って、51%にしない限り代表権はありません。
1週間の猶予をもらいました。
義理の父、私が務めていた元会社の社長、友人であり仕事仲間のEさんに頭を下げてお金を借りました。皆さん2つ返事でした。そして、我が家の貯金をかき集めて、460万を1週間後に渡して株を買い取りました。
なんとか、ニューズを潰さずに済みました。残りの49%の株は毎月、20万円ずつ返済しながら、買取、100%私が株を持つことになります。
今となっては、「お金を集めることの大切さと、難しさ」をその社長は教えてくれた気がします。経営とは、いつどうなるかわかりません。
仕事は着金があって初めて終了すると言うこと、えてして本番が終わって終了と思いがちだけれども、そうではない。
その後、私も苦い思いを2008年にすることになりますが、その話は、後日。
そんな紆余曲折がありながら、1999年4月から、晴れて、代表取締役としてスタートすることになります。
酒、タバコ、ゴルフ、・・・・・・どれか一つやめよう
その時から、一日2箱吸っていたタバコをきっぱりやめました。
今思えば、最低限の私なりのケジメだったのでしょうか・・・・・

1月31日は弊社の大晦日のようなもの。決算月です。
会社にとっては、けじめの月となります。
2月から新年度が始まります。

1995年2月、31歳の私は、弊社ニューズを創業。
その年は、1月17日に阪神淡路大震災、3月はサリン事件など、先行きが不安なバブル崩壊時代の真っ只中。
あれから、紆余曲折、山あり谷あり、谷底あり。

今日で、25年が経ちました。
明日から、26年目のスタートです。

この25年間、出会った方々に、感謝しかありません。

引き続き、よろしくお願い致します。

来てもらう商売から、行くビジネスへ・・・

少子高齢化社会に備えて、考え方を変えていかねばならない。

今までの常識が通用しなくなる。
逆にいえば、今までの非常識がビジネスチャンスとなる可能性があるという事。

例えば、先日の新聞記事「訪問美容」の利用がこの5年で倍増したそうだ。
介護施設などで、高齢者にヘアカットやネイルケアを施すサービス。
「オシャレでいたい」という願望だけではなく、
認知症による症状を改善する効果も期待されているようだ。

厚生労働省によると、美容室は全国に25万店舗近くあるそうだ、コンビニが5万6千店舗、歯医者が6万と比べると推して知るべし。当然、過当競争にのみ込まれ、過酷な労働状況も相まって、離職率も高く、人手不足のようだ。

そんな中、店舗に来ていただくために、様々なプロモーション活動をやっていたのではないだろうか。
顧客の囲い込みのためにポイントカードを作ったり、キャンペーンなどで期間限定のサービスなど。
店舗側は、いかにお客さんに来ていただくかに苦心してたと思いますし、今も苦心しているのでは無いだろうか・・
実際のところは、私も分かりませんが・・・・
飲食店もまた然り、たくさんある中の飲食店から、いかにお客さんに選んでもらって来店いただくか・・・

「待ち」商売と言ってもいいでしょう。ただし、365日24時間はどこも一緒、また、原価もそれほど抑えられないとするならば、来店客数を増やすか、客単価を上げるかしか、売り上げを伸ばす術は、無い。

最近「Über Eats」と書いた自転車やバイクをよく見かける。簡単に言えば「出前」サービス。
アプリで多数のレストランから、お好みのメニューを注文、様々な店舗の食事を運んでくれる。
このサービスは、お客が行くのではなく、「メニューが来る」昔ながらの出前を「登録レストラン」をひとまとめにして効率よく、お客さんのところに「行くサービス」
店舗でゆっくり食べたいお客さんもいれば、自宅で食べたいお客さんもいる。
今後、ひとり暮らしの高齢者の方々もそのようなサービスを利用する機会が増えていくかもしれない。

このように考えていくと、高齢者の方々は荷物を運ぶのも大変、昨今は車の運転も色々問題がある、生活様式が変わってくる事は確かな事、人が行くのか、ロボットが行くのか、ドローンが行くのか、それぞれだとは思うけれども、
「来てもらう商売」から「行くビジネス」への転換期に来ているのではないだろうか。

「来てもらう商売」を見つけて、そんな視点でビジネスモデルを見つけるのも面白いかもしれない。

冬の北海道はいつ以来だろうか・・・・ 大学生の頃、流氷を見るために、札幌〜旭川〜稚内〜紋別の旅をしたのを思い出す。 夏は、帯広の北の町・豊頃町で酪農家に住み込みのバイトで1ヶ月あまり過ごしたこともあり、 北海道には、ことの外、思入れがある。 とにかく広い、地図で見るとちょっとそこまでが、結構時間がかかる。 北海道だけ全体地図を縮小しているん違うって感じることもしばしば。 そんな北海道に異変が起こっているようだ。 とにかく雪が少ない。 来週から始まる雪まつりの雪像のための雪も札幌市外から調達しているようだし、 道内で行われる、雪まつりも軒並み中止を余儀なくされているようだ。 そして、いつまで続くかわからない「新型肺炎感染」 中国からの団体旅行のキャンセルが相次いでいる。 観光業にとっては、ダブルパンチだ。 インバウンドによる経済効果は全国至る所で見られるけれども、このような感染症など 世界中で人々が活発に動く時代、実に様々な生態系が変化していくことも否めない。 とりわけ、海に囲まれた日本において、国境を意識しすぎることもなく、水際対策で効果があった気がするが、これからはそうもいかない時代なのかもしれない。 経済を優先し過ぎてもいけないけれども、さりとて、あまり神経質になりすぎるのも考えもの。 オリンピックイヤーに巻き起こった「新型肺炎」問題は、大阪万博など、 これからの日本のインバウンド政策にも大きな影響を与えることになるのだろう。

 

間も無く、春節祭。
今年は、24日から、始まります。
新型肺炎が心配ですが、多くの中国人も日本にやって来ます。
ビジネス的には、やはり有難いことです。
そして今、中国人が日本に来てしたいことの4位が
「カプセルホテルに泊まりたい」(出典:トレンドExpress)だそうです。
中国系のメディアからの取材も増えているそうで、
「清潔感やリーズナブルさに加え、(ホテルの)システムやコンパクトさが面白く、普段は感じられない体験ができるといった点」が受け入れられているようです。
また、巣穴のように寝室が密集しているカプセルホテルの光景は海外でまだ珍しく、SNSで映える格好の撮影スポットになっていると思われます。
しかし、私が学生時代や若い頃は飲み過ぎて、終電がなくなってはカプセルホテルにお世話になるという、ある意味苦い思いしかないのだけれども、
月日が経ち、インバウンドからすると、非常に魅力的にうつるらしい。
時代とともに、また人によっては、同じものを見たりしても、魅力的に感じるのだろう。
海外の人々の価値観は、思わぬものに向けられるもので、ビジネスチャンスも、どこから広がって行くかわからないものです。
少子高齢化社会突入の日本において、「海外から見た価値」に気づいて、そして見つけていくのが「勝ち組」になるための施策かも知れません。
これからグローバルな時代には「価値の多様化」を見抜く力が必要な気がします。

25年前の早朝、突如襲った地震により、神戸を中心とした地域が災害に見舞われ、多くの人々が、亡くなり、被災されました。改めてお悔やみとお見舞いを申し上げます。

その後、2011年の東日本大震災など、毎年のように日本列島を、また世界各地で自然災害が起こっています。

災害は、突如襲ってきます。

しかしながら、当事者になるまでは、自分だけは大丈夫であろうという、そんななんとなく安全神話を信じている気がします。かく言う私自身もそんな気持ちがあることは否めません。

仕事柄、様々なプロモーションイベントを手掛けてきましたが、昨今は「防災意識」の啓蒙・啓発を知らせるイベントが増えてきた気がします。

地震だけではなく、豪雨や熱波、火山噴火など自然が起こす様々な災害にどのように対応し、対処していくか・・・・
起こすことを止められない災害に対して、起こった時、起こった後、どのようにしていくのか・・・
減災意識の高まりとともに、具体的にその時々の対応策をより多くの方々が共有する必要を感じます。

自助・共助・公助が基本ですが、
まずは、自分自身を守ることが先決です。日頃から自宅、勤め先、いる場所からの避難先を決めておく、意識しておくこと。避難グッズの装備など、日常でできることはしっかりやっておきたいものです。
また、近所、社内の仲間など、お互いに助け合うためのコミュニケーションも必要です。
特に、高齢者の安否確認、幼児・児童たちのフォローは大切なことです。互いに、「その時」のために、連携が必要です。

公助は残念ながら、初動の際はあてにできないような気がします。役所の方々も被災者になっている可能性が高いためです。
ですので、日頃から、自治体での避難訓練や、避難場所の運営方法、備蓄などを準備していくことが大事です。県単位や、市単位での活動は有事の際は、あまり機能的ではありません。
小さな自治体ごとのきめ細かい対応が必要となってきます。

毎年1.17を迎えるたびに、その悲惨な情景を思い出します。
人間の力で、自然災害を0にできなくても、被災を最小限にすることは、その努力でできます。
私が関わっている「防災イベントなど」によって、より多くの方々の意識に、危機管理をすることの大切さを、理解していただければ、と思います。

突然の自然災害で、一人でも多くの方々が助かることを祈りつつ、今日一日過ごしたいと思います。

2020年1月17日

 

 

 

 

 

 

 

令和2年の始まりです。

オリンピックイヤーです。

1年ごとに、こうして振り返りつつ、「新しい1年」を考えます。
あっという間に、月日は過ぎ去ります。
そんな中、昨年も様々な多くの出会いがありました。
出会いの連鎖が、実に様々なものをもたらしてくれます。
過去の流れが今となり、未来への流れは、今にあり・・・・
本当に、多くの方々に助けられて、「今が有ります」

今年もどんな出会いがあるか楽しみです。

「有難う」を常に心掛けて、令和2年を素敵な1年にしたいものです。

本年も、皆様にとって、幸多い年になりますように・・・・

2020年・令和2年 1月吉日
株式会社ニューズ 代表取締役 中野幸次

 

 

今年は、年号が、平成から令和へ変わり、新しい時代を感じながら年末を迎えております。

弊社も、本日27日で仕事納めとなります。

1年を振り返ると、本当に様々な出会いの中で、いろいろな仕事をさせて頂きました。

また、縁がなく、取りこぼした仕事も数多く、もっと精進しないといけないと思います。

全ての事が、うまくいくわけがないのは理解していますが、心のどこかで「もう少しこうすれば良かった」の思いは拭きれません。

運や、タイミングなど、実にその理由は様々です。

しかしながら、

携わった全てのことが、糧になり、また未来に出会う様々な仕事にフィードンバックするものと信じています。

さらなる高みに向かって、1年を振り返りつつ、令和2年に向けて、心新たに取り組んでいきたいと思います。

今年出会った、全ての方々に感謝したいと思います。

2019年 12月27日 株式会社ニューズ 中野幸次

毎年、クリスマス間近の日曜日に神戸で行なわれるイベントです。 1999年から、その仕事に携わって、今年で21回目となります。 4500名の観客の方が参加する「RALLY」と600名の方が参加する「Xmas パーティ」の2部構成。 毎年、大盛り上がりのイベントです。 そして、弊社もこのイベントでその年の大きな仕事は、仕事納めとなります。 このイベントが無事終わると、「その年」を振り返ります。 実に様々な仕事に携わらせていただいたことを改めて感謝しますし、 新たな出会いにも不思議な縁を感じます。 今年は、平成31年から令和元年へと、年号が変わり、新しい時代の幕開けでした。 思えば、令和元年最初の皇室の「四大行幸啓」の一つ「全国豊かな海づくり大会あきた大会」の仕事をやらせていただいたことは本当に光栄でしたし、今後も皇室のお仕事をさせていただけることは、弊社にとっても大変誇りに思います。 その他にも、実に様々な仕事をやらせていただいたことは、これからの弊社の経験値として大きな財産になりました。 また、来年はオリンピックイヤーとなります。 メディアが大いに煽ることが予想されます。東京方面は、人不足、ホテル不足など、 イベント業界にも大きな影響があります。 とはいえ、祭りの後のなんとやら・・・で、その後が大事です。 浮かれてばかりでいられません。 やるべきことをしっかり地道にやり続けることが必要です。 イベントは仮説であるが故に、儚く、そして尊いものです。 筋書きのある非日常空間の演出が、イベントの醍醐味です。 オリンピックという非日常を楽しんだ後は、足元をしっかり見据えて、取り組みたいものです。 来年もまた、クリスマスはやって来ます・・・・・

 

今週末の本番の準備をしながら、少し、令和元年を振り返る、、、、

 

 

年号が新しくなった平成から令和へ・・・・・

 

思えば、昭和から平成へ変わった時、日本国民は慌てふためいていた気がします。

32年前、昭和64年、正月が明けて、1月7日昭和天皇が崩御。

私は、就職して、2年が経とうとしていた頃で会社を辞めることを決めていました。

天皇崩御のため、社会全体が喪に伏したような状態になったため、軒並みイベントは中止・延期を余儀なくされ、

私は、2月に会社を辞めました。

私の社会人での最初のターニングポイントが重なった年だった気がします。

 

そして今年、生前退位ということもあり、どちらかというと、歓迎ムードの中の新しい時代の始まりになりました。

 

私にとって、令和元年はどんな年だったろう、、、、、

 

最も、大きなことは、やはり、初めてのラジオパーソナリティへのチャレンジかもしれません。

決して、ずっとやりたかったわけでもなく、縁があってそうなった気がします。

やり始めると、これが結構楽しい、構成を考える間も整理がついて面白い。

そして、なんと言ってもゲストとして出ていただいた方々には感謝しかありません。

忙しい中、古川橋のスタジオまで、御足労いただき、その人の人生を少し垣間見せていただいた気がします。

30分という短い中、言い足りないことが多々あったことはご容赦願いたいですが、また、ゲストに来ていただいてもう少し、深く話をお聞きしたい方々ばかりでした。改めて感謝申し上げます。

また、この先、ゲストに来て頂く方々との出会いが楽しみです。

 

ラジオのパーソナリティという未知の世界に踏み込んだおかげで、仕事にも好影響がありました。

全体をしっかり構成し、進めていくことを再認識できました。俯瞰で見ることの大事さを改めて感じましたし、

そして何よりも、相手に伝えるためにどのように言葉を組み立て、どのように言葉を発し、何を伝えたいかをしっかり自分自身が認識するということ。自分自身の頭の中で整理できていないことは、相手に伝わらないことがわかりました。

特に、演出・舞台監督をやっている時こそ、的確に相手に伝えないと、うまくいきません。

時間の制約のある中で、これは大きかったです。ラジオのおかげだと思います。

タイムキープする難しさを感じながら、特訓できた気がします。

 

そして、令和2年はどんな年になるのでしょうか・・・・・・

ラジオに関しては、まだまだイベント業界で出会った素敵な方がいらっしゃいますので、

是非、お時間をいただき、ゲストとして来ていただき、皆さんにご紹介したいと考えています。

 

https://www.yumenotane.jp/musounotouzainanboku

 

 

1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人〜300人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。

 

 

今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。

高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。

固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。

あるのは、ただそれだけです。

 

インターネットも携帯電話もない時代です。

情報自体に価値があった時代です。

電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。

 

まず、我々がやったのは、

そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。

大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・

20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。

アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。

ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。

4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。

 

 

そして、電話が鳴りました。

「何でもお手伝いセンターです。」

「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。

油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。

なんせ、初めてのミッションです。

私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。

タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。

「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。

今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。

ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。

2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。

効率的と言えば効率的です。

「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。

戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」

とんぼがえりです。

スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。

まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。

最初のミッションから波乱万丈でしたが、
この後、「何でも屋さん」は2年余りの活動期間でしたが、
幕開けは「換気扇洗い・蓋落っこちた事件」から、でした。
何でもお手伝いセンターを始めて、2ケ月くらい経った頃だろうか、1984年・大学2回生の夏休みだったと思います。
イベントの制作会社から、若者を20〜30人手配して欲しいと言う依頼がありました。
その頃は人材派遣会社も一般的ではなかった頃です。パソナがまだテンポラリーセンターと呼ばれていた時代です。
何でもお手伝いセンターは、大学生を中心に若者の集団です。
友人の友人に会員登録してもらって、アルバイトを斡旋する仕組みが出来つつありました。
登録料など不要です。アルバイト斡旋に、ディスコパーティなどを企画していましたので、会員になることを断る理由はありません。当時は、学生主催のスキーツアーや、沖縄ツアーなど学生が主催者として、企業とタイアップしていた時代です。
イベント制作会社からの依頼で、20名ほどの若者を引き連れて行ったのが、奈良公園です。
そこで行われるのが、「高校生クイズ選手権・近畿地区大会」です。
日本テレビ系列がやっている「通称、ウルトラクイズ」の高校生版です。
我々は、そのスタッフとしてお手伝いです。
初めて、そのような現場に行ったので、難しいことはできません。テレビ局のアシスタントディレクターの指示のもと、
我々のミッションは、ロープマンです。
「YESかNOか」クイズ出題のあと、どちらかに出演者の高校生が移動します。その分けるためのロープを持ったスタッフが我々です。経験値は要りません。
しかしながら、出演している高校生の真剣な姿や、その姿をカメラで追いかけるテレビクルーなどを側で見るにつけ、イベントの面白さに、興味を持ったことは確かです。
そして、その後、毎回スタッフとして呼ばれることになります。
ロープマンから、受付スタッフ、そしてフロアーアシスタントディレクターと、徐々に、役割も出世して行きました。
ディレクターさんと一緒にマニュアルを作ることもありました。
そのころは、すべて手書きですが・・・・・・(笑
そのように、「何でもお手伝いセンター」には、実に様々な「助けて」依頼が舞い込んできます。
プレス工場のベルトコンベアのスプレー缶を収納するアルバイト、牛乳配達、オーディコロンのデモ販売、アイドルタレントのミニライブの警備、自転車競技のコースに立つ警備スタッフ、ライブハウスツアーの運転手兼アシスタント、吉本新喜劇の大道具運搬、ラジオ芝居の出演、獅子舞の中に入って踊るなんてこともやりました。
また、同時に、ディスコパーティや、バーベキューパーティ、沖縄ツアーなど「遊びの企画」もやっていました。
その後、イベントの裏方スタッフの面白さを知った僕は、積極的にイベントスタッフの方にシフトして行きました。
暑い夏、台風も近づいて来ています。
海や川、山での行楽は、本当に安全には気をつけて頂きたいものです。
お盆になると、小学校時代「夏休みの宿題の残りをどうするか」焦った記憶があります。
夏休みが始まった頃は、「まだまだ、休みは長い!」って・・・・
翻って、この歳になると、お盆になると「私自身のルーツ」を思います。
先祖からの長い軌跡が、今の自分の家族につながっていると考えると、
「私の祖先」はどんな人で、どんな人生を歩んでいたのだろう・・・・
父は大工、祖父は漁師と実業家、曽祖父は宮大工だったそうで、それ以前はわからないそうだ・・・・
そう考えると、不思議な軌跡は、本当に奇跡が続いているのかも知れない。
お盆くらいは、「祖先」に想いを馳せるのも良いかもしれない。
しかし、小学生の夏休みはなんであれだけ長かったのに、「アッと言う間に終わった」のだろうか・・・
今だったら、「暇で仕方ない」かもしれない。