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1989年、時にバブル崩壊の陰が忍び寄っていたと思いますが、大阪の業界的には、翌年の“花博”バブルで沸き返っていました。

まさしく、当時は博覧会ブームで、様々な地域で地方博含めて、開催されていました。

国際博となると、その規模も内容も違います。関西中の業界関係者は「その時」に向けてラストスパートをかけていました。

私は、「40社の企業の日」の企画打合せのため、参加企業40社回りをしていました。また、事務局主催のイベントの企画も合わせて考える・・・・・追いかけられるというのは、こういうことと、感じながら必死にこなしていました。

各企業さんには、概要説明から始まり、その意義、そして「企業の日」に出すイベントのリサーチ・・・・・単純に1日1社で40日かかります・・・・・

アポ取りから、日程調整、そして打合せ資料作りと、多忙な日々を過ごしていました。当然、パソコンじゃなく、ワープロの時代です。資料作りとっても、時間がかかります。メールも無い、FAXの時代・・・・・何もかも、そのスピードです。

 

そんな、準備期間も、「アッという間に」過ぎていよいよ会場入りです。知らぬ間に常駐スタッフになっていました。その日から、6ヶ月出向扱いです。通勤は花博会場のパビリオンです。その間、大きな共同体の中での生活が始まります。

 

1990年4月1日、賑やかに「国際花と緑の博覧会」は開幕しました。

 

1990年4月から、大阪鶴見緑地で開催される、通称「花博」への出向は確定してた、前年1989年からは、その準備で、てんやわんや、です。

40社からなる大輪会から、出向でコンパニオンが選ばれるとともに、一般公募でも面接を経て、合わせて、80名のコンパニオンが勢揃いです。マナー、接客などの研修をへて、1年前決起大会など、本番へ向かって様々な行事、などが重なりあいます。

これぐらい大きなプロジェクトになると、事務局そのものが会社組織のようなものです。総務、渉外、接遇、広報、運営、など様々なセクションでの動きになります。まだ若かったとは言え、大手広告代理店の担当者とタッグを組んで、まずは、組織の中でのポジションをしっかり固めないといけません。クライアント、その筋の方々、何たって、40社すべてがクライアントです。粗相はできません。コンパニオンも出向してるということは、クライアント筋・・・・・・・

なかなか、実は、厄介です。ただ、この大きなプロジェクトを動かすとなると、確実にチームワークが問われます。

館長以下、事務局員ばかりではなく、テクニカルスタッフ含めて、一致団結していかなければ、この長丁場は乗り切れません。

事前準備から、我々の闘いは始まっていると言ってもいいでしょう。

1989年、私は大輪会「水のファンタジアム」の催事ディレクターに任命されました。楽しくも苦しい、充実した日々の始まりです。

1990年は、ある意味、私のイベント業界での最初のエポックメイキングな年になりました。世間では、まだバブルが弾けるとは、考えにくい頃、大阪で1970年以来の国際博覧会が開催されました。

Wikipediaより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

国際花と緑の博覧会(こくさいはなとみどりのはくらんかい、英:The International Garden and Greenery Exposition,Osaka,Japan,1990)は、大阪府大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日ツꀀ-ツꀀ9月30日)で行われた博覧会国際事務局ツꀀ(BIE) 認定の国際博覧会であり、また国際園芸家協会(AIPH)の大国際園芸博覧会でもある。会場面積は約140haで、略称は「花の万博」「EXPO’90」。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。

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私は関西で生まれた企業40社の企業体「大輪会 水のファンタジアム」というパビリオンの催事ディレクターという立場で仕事をさせていただきました。

前年の準備から考えると2年にわたる、「大プロジェクト」でした。

その間の出来事などを、追々お話していこうと思います。

 

 

1989年1月、社会人2社目のスタートです。東京に本社がある会社でしたので、現地採用の私以外は東京本社からのスタッフです。何かと、やり方、考え方、進め方が違うので戸惑っていましたが、前社でのチャレンジング精神のおかげで、臆すること無く、こなせた気がします。

東京発の仕事は、やはり悔しいけれども全国区です。

東京・名古屋・大阪・福岡・札幌と、あるペットフードメーカーのバイヤーさんへの新製品発表会で全国を回りました。仕事はもとより、各地での飲み会が楽しみで、それはそれは、遊びましたね・・・・・・札幌ラーメン食べた次の日は博多ラーメンでしたから・・・・・

その後も、鈴鹿サーキットでのF1レースでのプロモーションや、Jリーグ横浜マリノスのプロモーション、こどもクッキングコンテストなど、大阪だけではなく、全国飛び回ってた気がします。

徐々に、仕事も任せられるようになってくると、JOB(案件)を自分が制作推進していくことになっていきます。多くは、取引先としては、大手の広告代理店さんの担当と推進していきます。

クライアント(スポンサー)は主催者とも言えますし、お金を出している所とも言えます。例えば、ラーメンのメーカーさんであったり、車のメーカーさんなどですね。

広告代理店はそのスポンサーさんの製品(商品)をどのように世間に知らしめ、かつ販売促進するかを、様々な媒体を使って推進していきます。

我々は、セールスプロモーション(販売促進)活動ということになります。

媒体とは、簡単に言えば、テレビCM、ラジオCM、新聞広告、雑誌広告、インターネット広告、その他、駅ばり、屋外広告、電車の中刷りなどなど・・・・・・です。

セールスプロモーションとは、街頭キャンペーンや展示会出展、パーティ企画、講演会、シンポジウム、表彰式など、媒体以外で集客や購買促進、認知度アップ、試飲会などを行なうことです。

そんな中で、案件推進を任せられてくると、今までのやり方、立ち位置ではどうしても処理できないことがたくさん出てきます。

コスト管理、スケジュール管理、キャスティング管理です。今までは与えられていたことをこなすだけだったのが、自分自身で考え管理していかなければなりません。

ヒトが、ある瞬間に脱皮するときは、120%以上の仕事を与えられたときなんでしょう。1989年は、自分自身が大きく脱皮するタイミングの年だった気がします。

 

大学を卒業して就職した会社には、結局2年弱しか在籍しなかった。ただ、その2年間では、本当に様々な経験をさせていただいた。

「小石でも、拾い上げるとその裏に仕事なんて、どこにでも落ちてるよ・・・」当時の社長はよく私に、言ってた言葉です。仕事は選ばなければ、あるもんだ。まぁバブル時代ということもありましたが・・・・・・

というより、今は、その言葉の裏には、「やったことのない仕事でもチャレンジするんだよ」という意味に感じます。その会社は小さかったけれども、常にチャレンジングでした。ペーペーの私を運営リーダースタッフとして50日間も任せたり、その他にも映像編集の仕事や、書いたことの無い台本書きや、当時まだ一般的ではない「ワープロ」を打たせたてもらったり・・・・・・

“やったことがないから、できない”という発想は全くない社長でした。その後の、独立後の私の営業姿勢の原点かもしれません。

ただ、色んな理由の中で、退社をすることになりました。

若気の至りだったんでしょう。その時は、その後のことは全く考えてなかったくらいですから。

ただ、まだまだ、バブル時代でしたので、業界的には人材不足の時代だったんでしょう。「やめる」と聞いた先輩から、お誘いがありました。

近しい会社だと、何かと、前の会社に迷惑がかかりそうな気がしてましたが、幸いそのタイミングに東京本社のPR会社が大阪支社を開設するということだったので、それならば、ある意味新しいフィールドで働けるんじゃないか・・・・

 

折しも昭和天皇が崩御され、イベントというイベントがすべて自粛していた、1月に私にとって、社会人2社目がスタートしたのです。

 

 

夢工場は当時インテックス大阪1号館から5号館までを使ったイベントです。

夏休みの開催でしたし、関テレではバンバンコマーシャルしてたので、それはそれは大人気でした。


 

中でも、私が受け持っていた「はれときどきぶた」パビリオンは毎日、長蛇の列です。中に、100名(だったと思います)くらいのシアターがあり、その前後に様々な体験・体感アトラクションがありました。入場制限をしながらの誘導でしたので、運営スタッフの意気のあった対応がとても重要でした。

 

今考えてもチームワークはバツグンだった気がします。

それぞれのセクションでそれぞれの役割を十二分にこなしてくれたと、今更ながら感心します。運営スタッフはほとんどが学生さんでしたから・・・・・

そして、事件が起こったのです。もう26年も前ですから時効でしょうが・・・・・

最終日、「はれぶた」パビリオンを楽しみにして来られたお客様がいました。が、残念ながら、終了までに入場制限をせざる得ません、これは毎日のことです。イベントに終了時間があるように、こなせるタイミングの限界時間で入場をお断りせざる得ないのです。ただ、その日は「夢工場」そのものの最終日です。二度と入れないのです。

お客様も粘りましたが、我々運営スタッフとしても、断腸の思いなんですが・・・・・そこはある程度割り切らざる得ません。

そして、運営スタッフがお客さんに殴られました。大騒ぎです。私は運営リーダーとして、事務局を通して抗議をしたんですが、そのアルバイト君が「中野さん、いいですよ、お客さんの気持ちもわかるし、そして何よりもここで大騒ぎしたら、折角のはれぶたスタッフに迷惑かけますから・・・穏便に行きましょう」

対処の仕方が、本当に良かったかどうかは、議論の余地がありますが・・・・・・

その彼の言葉がすべてを現しています。

このイベントは決して一人で完遂できたものではなく、それぞれのスタッフが持ち場だけじゃなく、自分たちのパビリオンという意識で働いてくれた結果だと、今でも思います。

イベントの難しさ、楽しさ、そして素晴らしさを知った50日間でした。

今でもインテックス大阪に行くと「キュン」としてしまうのは、あの時の

彼の言葉を思い出すときです・・・・・

 

 

コミュニケーションカーニバル 夢工場’87』(コミュニケーションカーニバル ゆめこうじょうはちじゅうなな)とは、1987年7月18日から8月30日まで日本で開催されたフジサンケイグループ・フジテレビ・関西テレビ主催のイベント。東京・晴海の東京国際見本市会場と大阪・南港のインテックス大阪で行われた。(Wikipedia)

その年の夏、急遽この現場に行くようになりました。

「はれときどきぶた」という当時、「ひらけ!ポンキッキ」で歌われて人気のあった絵本をパビリオン化したものです。

実際に役者さんが、そのストーリーを演じ、空から豚が降ってくるというとてもロマンティックなシアターや映像で滝が流れるコーナーや、ボールを投げるとセンサーが反応して絵が壊れる・・・・当時の最新技術を駆使したフジサンケイグループの大イベントのハシリですね。

まぁ、急遽ということは大人の事情があってのことで、現場に入ると既にパビリオンが出来上がっていますし、キャスティングも決まっています。

コンパニオンも司会のお姉さんも、役者さんも・・・・・すべて、配役は決まってます。

決まっていないのが、運営スタッフです。ということで、私が「何でも屋」の経験から若いアルバイトくんを集めて、会場に入りました。

入ってびっくり、全体をまとめるディレクターがいない・・・・・・・・

というより、私がその役目になってしまった・・・・・・

「ちょっと待ってよ」って感じですが、サイは投げられたままです。

東京のプロデューサーとやっつけの打合せを済ませた後は、すべてを知っているかのように、振舞いながら、役者さん、司会のお姉さん、コンパニオン、運営スタッフすべてに指示を出していました。

今から考えても、よく社会人1年生の私をそんな総勢100名以上のスタッフ・演者さんのまとめ役にしたなぁ・・・と。バブルのなせる技ですね、キット。あの頃は仕事が多過ぎて断っていたくらいでしたし・・・・・・・

そして50日近いイベントが開幕したのでした。

 

 

インド・ネパール17日間放浪記には、少しまだオチがあり、結局、大阪空港に無事着いたんですが、ロストバーゲージで、荷物はどこへやら・・・・・・2週間後に自宅に帰ってきましたが。

 

まぁ、そんなことで、学生時代とケジメをつけて、さぁ縲怐Aということで。

就職先の会社は手ぐすねして待っていたようです。

そして目出たく、社会人初めての仕事が「アメリカンジュークボックス」という、アメリカはダラスで公演されていたミュージカルの日本公演のバックステージスタッフです。言い方はかっこいいですが、アメリカスタッフの御用聞きですね。ケビンという舞台監督のアシスタントとして、多分2週間くらいの公演だったと思いますが、ホールに通い詰めです。

リハーサルでは、聞き取れない英語が飛びかう中、必死に道具を運んだり、大道具を操作したり、小道具をスタンバイしたり・・・・・・演者さんが舞台でスムーズに演じられるように、いかに効率よく、効果的に短時間でスムーズにスタンバイをするか・・・

公演していたホールの近くにそのスポンサーさんの新しいアメリカンチックなレストランができるということの記念公演のようなものでしたので、終わっては、毎日そのレストランで飲んで踊って、、、なんたって陽気なヤンキーさんですから。そうなると、公演中もチームヤンキーで仲良く楽しく、、、、、、、、英語はわからずも、ボディランゲージでコミュニケーションは大丈夫。

本当に楽しかったなぁ・・・・社会人最初のイベントがミュージカルのバックステージスタッフ、って考えたらものすごく光栄なことでしたね。本当に、みんなイイやつらでしたし、日本のスタッフにも助けられました。

ただ、ペーペーの頃ですから、「弁当の中身がいつもと一緒」「弁当持ってくるのが遅い」「打合せで、聞いてないことはできない」「無理」「できない」「いやだ」・・・・・・・・・・テクニカルスタッフには嫌という程、いじめられました。いや訂正、いじめてたのではなく、彼ら理論でいくと育ててやってるんだ・・・ということでしょう。まぁ、ほんと、理不尽でしたよ・・・・でもそんな理不尽さの中から、プロとしての考え方、姿勢を学んだと思います。今だからわかることです。

やはり、社会人なりたてで、学生気分が抜けきってなかったんでしょう。それを見透かされてた気がします。

この2週間の現場は本当に、頭打ち、悩み、悔しく・・・でも愉しい仲間との舞台作りを体験させていただいたと、感謝しています。

 

26年前のインドですから、それはそれは、トラブルの連続です。

(というか、最近のインド事情がわかりませんが。)

 

電車・バスは時間通りの来ないのは、当たり前。指定乗車券を買っても席はなし。歩いていると「バクシーシ」って施しを求めてくる。彼らにとって、富める者から施しを受けるのは当たり前・・・

カルカッタから、電車でバラナシーへ。ヒンズー教徒の聖地ですね。ガンジス川の右岸は建物がこれでもかって建ってますが、左岸は荒れ地です。これは、左が不浄という、彼らの思想からきているんでしょう。なので、食事も右手だけ食べますし、逆に排泄には左手でナチュラルウォーターウォシュレットよろしく、って感じです。

そこで、見たものは

沐浴をしているヒト、洗濯しているヒト、歯を磨いているヒト、ただただ、祈っているヒト、そして火葬場で焼かれているヒト・・・・・・

生死がまさしくそこにありました。今もなおその光景は忘れられません。

輪廻転生・・・・・彼らはそこに、死にに来ています。そこで死ねたら本望、生まれ変わればキット違う幸せな人生が待っている・・・・

カースト制度は表向き禁止されているけれども、その当時、今もなおその制度な根強く残っている気がします。

その後、国境を超えて、ネパールのカトマンズそしてポカラへ・・・・・そのあまりにもゆったりした空間・時間に、わたしは少し、ほうけたように、日々を過ごしていました。バラナシーでのことがあまりにも衝撃的だったのかもしれません。

その後アグラーでタージマハールを見たり、ニューデリーで宙に浮く大道芸人を見たり、そして明日帰るというタイミングで、ニューデリーの街中で「中野縲怐vって私の名前を日本語で呼ぶ声が・・・・

「えっ・・・・・」そこには、大学時代の友人が立ってました。

日本でも、大阪でも会わないのに、なんでここなん?って感じでした。でもその出会いがなかったら、私はインドから出国できなかったんですね。

というのも、初めての海外ですから、空港税というものを払うことをすっかり失念して、ルピー貨幣はすっかり使い果たしてしまっていました。彼と出会わなかったら・・・・と思うと、少しぞっとしますね。

まぁ、何らかのトラブルはあって出国してたと思いますが、

社会人になる前の、23歳の若造がその旅旅で感じ体験、体感し、その視界で見たモノ、臭った臭い、すべてが原点になっている気がします。

学生から社会人への転機での、エポックメイキングな旅になったことは、間違いない「インド・ネパール17日間の放浪記」でした。

 

 

 

就職も決まり、2月下旬に「インド・ネパール17日間放浪の旅」に出ました。

なんで、インド?って感じでしたが、今考えても理由が思い浮かばない。

ただ、事実として、「初めての海外旅行」「一人旅」「行きと帰りだけが決まっている旅」ということ・・・・・無謀ですよね、どう考えても。

 

とにかく、ええままよ、とばかりに、伊丹空港から、タイ・バンコクでトランジットで1泊。その後、当時のカルカッタへ・・・・・

タイ・バンコクでは10分で行けるホテルに1時間もタクシーに連れ回されたり、変な所に誘われたり・・・初海外の洗礼を受けながら、なんとかインド・カルカッタへ。

カルカッタは、2001年には正式にコルカタと正式名称になったようですが・・・

 

とにかく、空港から出た瞬間に、臭いと喧噪と、汚濁と・・・・・申し訳ないですが当時の状況を現すとそんな言葉しか出てこない。路上では、「バクシーシ」と施しを受けて当たり前・・・・

とにかく、その日の宿泊を探さな・・・・・「地球の歩き方」を片手に毎日、宿を探してた気がします。

ただ、今考えても、社会に出る前に「インド一人旅」は本当によかったと思います。(続)

 

 

大学生活も終わろうとしている、1987年。この時期は確実に売り手市場でしたね。当時リクルートに会社案内請求ハガキを送ると、とんでもないくらいのパンフレットやガイドブックが自宅に送られてきたものです。

内定者は、まさしく囲われて、海外旅行とか・・・・・・・・

金融・証券などは超人気ジャンルでしたね。

私の友人もリクルートスーツに身をつつんで、会社回りをしていたものです。

私は、教育実習で、教師職にげんなりだったので、・・・・どこかフワフワしてた気がします。

そんな時、何でもお手伝いセンター時代に知り合った会社から、誘っていただきました。イベント業界にやり残したことがあったことと、自分自身の力量を試すには大きな会社よりは小さな会社のほうが、ノウハウ・仕事を覚えるのも早かろうということで、当時3人しか社員さんがいない小さな会社に就職が決まりました。

まぁ、何社かテレビ局や大手の広告代理店も受けましたが、コネのない自分はかすりもしなかったので、逆にその小さな会社での決意は固くなった気がします。

最近、大学生と就活などの話をする機会がありましたが、「どこの会社」に入れるかを気にしているヒトが多いですね。本当は「何をしたいのか」が重要なのに、・・・ましてや、昨今の状況を鑑みてみると、10年後20年後その「大きな会社」すら、なくなってしまう可能性があります。事実黄金期(1987年)に就職した証券会社はことごとく、バブルとともに、無くなってしまいました。

私の基準値は「会社」が無くなっても自分のノウハウで食べていきたい、その為に小さくても仕事を覚えられる会社がいい、と考えてました。

これは、1000人ツアーの大失敗が教訓になっています。やはり基礎知識、基礎からのノウハウがとても大切だということ。

ということで、1987年3月から、社会人として働くことになります。

その前に、卒業旅行ということで、「インド・ネパール17日間一人旅」に出かけます。

その話は、次回に・・・・・・

1985年・夏1泊2日の1000人ツアーは決行されましたが、その成果たるや、散々たるものでした、、、それでも参加いただいた方々には満足いただくように、精一杯のおもてなしをしました。
慣れない接客業含めて、スタッフたちも一生懸命に働きました。

しかし、所詮自己満足です。

お客さんからは、予定通りのイベントが開催されないこと、などクレームの嵐です。

そらそうです。1000人集まるはずが、300人も乗船してないのですから・・・・・

兎にも角にも、やりきることがミッションと・・・・・・

そんな時はやはり、ココロもササクレてくるものです。

若いということは、エネルギーが一致している時はものすごいパワーを発揮しますが、一旦崩れると、その負のパワーがほころぶのも、早い。

結論は大失敗の1000人ツアーでした。

その後、ご迷惑をかけた方々には、働いてお返しするしかありません。

あらためて、思うことはノウハウもそれほどない、若いというだけのパワーだけでその器以上のプロジェクトに取り組んだということ、自分たちを過信していたということ。

その後、「なんでもお手伝いセンター」は解散的になり、結局はばらばらになりました。

私は、就活しながら、
学校の先生になるべく、教育実習に母校に通う日々が始まりました。

それでも、教育実習で体験した裏の教育の世界・・・・暗澹たる思いの中、やはり、中途半端でやり残した、イベント業界のアルバイトを未練がましく、追いかけていたのでした。

「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」は後、ロープマンから受付担当、そしてフロアーADと、年々役割が偉くなっていきました(笑)

その後、イベントスタッフの仕事が増えていきます。

アイドル野外コンサートの警備、ライブツアーの運転手兼AD、プロ野球12球団スポーツフェスティンバル選手管理、大鳴門橋歩こう会誘導スタッフ、ツール・ド・フランスの警備、ラジオ船上公開放送のスタッフ、ディスコパーティ企画、平塚七夕まつりの七夕買い付け、獅子舞、七福神パフォーマンス、水中どぼんゲーム、タレント送迎、甲子園若人の祭典AD、ビアガーデンでのDJステーションフロアAD、などなど。

そして、

1985年(S60)6月淡路島と徳島県を結ぶ大鳴門橋が開通。明石海峡大橋早期着工をめざし、淡路島全島を舞台に繰り広げられたのが、「くにうみの祭典~淡路・愛(あい)ランド博」

そして、その頃、その祭典の様々プロジェクトに関わることになります。

我々、「なんでもお手伝いセンター(のちMS企画に改称)」の若手スタッフは、もう “行け行けドンドン”でしたね。

今思えば、
大きなプロジェクトに関わっているだけで、そのプロジェクト全体を仕切っているよな錯覚に囚われていたんですね。

大鳴門橋が開通する前は、「大鳴門橋を歩こう会」イベント。
船で行く「淡路くにうみの祭典」では船上ラジオの公開放送イベント。
新しくできた淡路島のペンション取材。

ありとあらゆる、島内イベントにかりだされました。
それが、ある意味若いスタッフのモチベーションになっていました。

そんな時です、夏に1500名乗りの船を使った「1000人ツアー」をやらないか・・・・と。

上げ潮の時に、ますますモチベーションがあがるプロジェクトです。
その時の取材がこの「情報誌ぴあ」です。

もう逃げるわけにはいかない・・・・・・2つ返事での決行でした。(続)

私は、その日から「関大前雀荘」通いから、「武庫之荘・何でもお手伝いセンター」へ通うことになります。

携帯電話等無い時代ですから、机に固定電話1本あるだけのワンルームでの生活が始まりました。

とにかく、「何でもお手伝いセンター」の存在を知ってもらうために、チラシを配りまくりました。マンション、アパートの郵便受けに入れるポスティング。通勤客相手に、武庫之荘駅前でチラシ配布・・・の日々。

そして、初めての何でも屋の仕事・・・・・・

場末のスナックの「換気扇洗い」でした。

とにかく友人と2人でそこに向かい、換気扇を取り外し、洗剤はアメリカ製のもので特殊な洗剤と言って、ゴシゴシ油汚れを取りました。今だから言えますが、普段そんなことしたことが無い二人です。誤摩化しながら小1時間で終えて、元通りに取り付けて、二人で報酬が3,000円だったと思います。

が、

その後クレームの電話・・・換気扇がちゃんと取り付けてられなくて、落ちてくる。すぐに舞い戻って平謝りしながら、事なきを得たのが最初の“仕事”でした。

その後も、ビール工場の瓶詰め、化粧品のデモ販売、引越の手伝い、ラウンジへの客呼び込み、テキ屋でのイカ焼き、牛乳配達、他人の披露宴のアトラクション出演、獅子舞パフォーマンス、吉本新喜劇の大道具の運搬運転手等等。

様々な仕事が舞い込んできました。

とともに、

スタッフも増えていき、友人・知人がまた知人をと・・・・・

登録スタッフだけで、200名以上になっていきました。

 

そして、初めてのイベントの仕事以来がありました。

日本テレビ系の事業「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」

学生アルバイトを10人ほど、集めてよ・・・・・ということで、場所は忘れてしまいましたが、「ロープマン」の役割でした。そう、YesかNoかで左右に分かれる時のロープマンが私がこの業界で初めて経験したイベントスタッフだったのです。

その後も様々な仕事をこなしながら、20歳の青春を謳歌していました。(続)

 

1年間の暗い浪人生活から、解き放たれた30年前の春・1983年、私は関西大学経済学部に通うことになりました。

本当は、体育の先生になるために、体育学科志望だったんですが、当時の共通1次試験に阻まれて、「社会科の免許」が取れる大学を2次志望として、合格したのが、関大でした。

教員免許を取るための「単位」を選択し、春のキャンパスライフに胸トキメかせていたのを、思い出します。

夏休みには、「北海道の牧草農家で1ヶ月間の住み込み」のアルバイトをして、お金を貯めて、車の免許を取り、あとは、「教員免許を取る」ことで、ほぼ、私の大学生活での目的は終わったと言っても過言ではありませんでした。

それからは、ひたすらアルバイトの日々でした、「学相(学生相談所)」通ってアルバイト紹介してもらって・・・・・・・・その間は、関大通りにある「雀荘」に入り浸り、授業の間に遊んでるのか、遊んでる間に授業を受けているのか、全く怠惰な生活を繰り返してた気がします。

そんなある日、高校時代の友人から1本の電話があり、「おもろいことやるから、一緒にせえへんか・・」という誘いの電話がありました。

阪急武庫之荘駅から歩いて5分ほどのワンルームマンションに友人は私を連れていき、A5 サイズのチラシを見せて、「今からポスティングや」

なんか、嵌められた気がしましたが、そこは好奇心旺盛な若者だったので、「ええままよ」と・・・・

一緒にポスティングをしたことで、

「この業界への見えざる道」が用意されてたのかもしれません。(続)