Monthly Archives: 8月 2019

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何でもお手伝いセンターを始めて、2ケ月くらい経った頃だろうか、1984年・大学2回生の夏休みだったと思います。
イベントの制作会社から、若者を20縲怩R0人手配して欲しいと言う依頼がありました。
その頃は人材派遣会社も一般的ではなかった頃です。パソナがまだテンポラリーセンターと呼ばれていた時代です。
何でもお手伝いセンターは、大学生を中心に若者の集団です。
友人の友人に会員登録してもらって、アルバイトを斡旋する仕組みが出来つつありました。
登録料など不要です。アルバイト斡旋に、ディスコパーティなどを企画していましたので、会員になることを断る理由はありません。当時は、学生主催のスキーツアーや、沖縄ツアーなど学生が主催者として、企業とタイアップしていた時代です。
イベント制作会社からの依頼で、20名ほどの若者を引き連れて行ったのが、奈良公園です。
そこで行われるのが、「高校生クイズ選手権・近畿地区大会」です。
日本テレビ系列がやっている「通称、ウルトラクイズ」の高校生版です。
我々は、そのスタッフとしてお手伝いです。
初めて、そのような現場に行ったので、難しいことはできません。テレビ局のアシスタントディレクターの指示のもと、
我々のミッションは、ロープマンです。
「YESかNOか」クイズ出題のあと、どちらかに出演者の高校生が移動します。その分けるためのロープを持ったスタッフが我々です。経験値は要りません。
しかしながら、出演している高校生の真剣な姿や、その姿をカメラで追いかけるテレビクルーなどを側で見るにつけ、イベントの面白さに、興味を持ったことは確かです。
そして、その後、毎回スタッフとして呼ばれることになります。
ロープマンから、受付スタッフ、そしてフロアーアシスタントディレクターと、徐々に、役割も出世して行きました。
ディレクターさんと一緒にマニュアルを作ることもありました。
そのころは、すべて手書きですが・・・・・・(笑
そのように、「何でもお手伝いセンター」には、実に様々な「助けて」依頼が舞い込んできます。
プレス工場のベルトコンベアのスプレー缶を収納するアルバイト、牛乳配達、オーディコロンのデモ販売、アイドルタレントのミニライブの警備、自転車競技のコースに立つ警備スタッフ、ライブハウスツアーの運転手兼アシスタント、吉本新喜劇の大道具運搬、ラジオ芝居の出演、獅子舞の中に入って踊るなんてこともやりました。
また、同時に、ディスコパーティや、バーベキューパーティ、沖縄ツアーなど「遊びの企画」もやっていました。
その後、イベントの裏方スタッフの面白さを知った僕は、積極的にイベントスタッフの方にシフトして行きました。
暑い夏、台風も近づいて来ています。
海や川、山での行楽は、本当に安全には気をつけて頂きたいものです。
お盆になると、小学校時代「夏休みの宿題の残りをどうするか」焦った記憶があります。
夏休みが始まった頃は、「まだまだ、休みは長い!」って・・・・
翻って、この歳になると、お盆になると「私自身のルーツ」を思います。
先祖からの長い軌跡が、今の自分の家族につながっていると考えると、
「私の祖先」はどんな人で、どんな人生を歩んでいたのだろう・・・・
父は大工、祖父は漁師と実業家、曽祖父は宮大工だったそうで、それ以前はわからないそうだ・・・・
そう考えると、不思議な軌跡は、本当に奇跡が続いているのかも知れない。
お盆くらいは、「祖先」に想いを馳せるのも良いかもしれない。
しかし、小学生の夏休みはなんであれだけ長かったのに、「アッと言う間に終わった」のだろうか・・・
今だったら、「暇で仕方ない」かもしれない。

北海道でのアルバイトが決まって、

大阪からは寝台列車・銀河で東京へ。高校時代の友人と久しぶに上野公園の西郷さんの銅像前で再会。
そして、私は、その夜、またもや寝台列車で上野から青森へ
そして1983年当時は、まだ青函連絡船でしか北海道に渡れませんでした。
函館の港が見えた時は、「北海道にやっと着いた・・・・」と感慨深いものがありました。

函館の街を観光した後は、列車で、豊頃町へ
全国からこのアルバイトに応募していた学生達が10数名いた気がします。
ジンギスカンで歓迎会をしていただき、
その後、それぞれのお世話になる「農家のオヤジさん」に引き取られるように、
三々五々、別れ、長い夏が始まりました。

私がお世話になった農家は、「牧草」を刈り取り、サイロに貯蓄していくことがメインの仕事です。
牛の餌になる牧草を冬季のために保存しておくのです。
何ヘクタールもある牧草地の牧草をトラクターで刈り取り・サイロに運ぶ作業です。
作業は力仕事で、大変でした。やはり夏です、汗だくになりながら、草まみれです。
朝、陽が昇る頃から陽が沈むまでの作業。
しかし、雨が降ると全く作業ができません。
その年は、結構雨の日が多く、そんな時は、オヤジさんが車で北海道巡りに連れて行ってくれました。
襟裳岬、阿寒湖、網走刑務所、など、本当にアルバイトに来ているのに、良いのだろうか・・・と
我々、学生アルバイトがいてるうちに、全ての作業を終える必要があるにも関わらず、です。

やはり、当時から若者は都会へ出てましたので、後継ぎ問題はその頃からの課題だった気がします。
農家には、若い力が必要です。

色々ありましたが、刺激的な1ケ月余の住み込みのアルバイトは19歳の私に貴重な体験をさせてくれました。

青く高い空、どこまでも続く大地は今も尚私の脳裏に焼き付いて離れません。

やっと、長い梅雨が明けたと思ったら、猛暑到来です。熱中症には気をつけて頂きたいものです。
8月になると思い出します。梅雨のない北海道の夏。19歳の時のことです。
1年間の浪人生活を終え、1983年4月関西大学経済学部に入学。
本来は、体育の教師を目指していましたので、福岡教育大学を第一志望にしてましたが、
当時の「共通一次試験」と「二次試験」で合格は叶わず、社会科の教員免許の取れる、関西大学に入りました。
浪人時代の辛さを考えると、社会科でも教員を目指せるならばと、入学当初、大学生生活にウキウキしたものです。
4年間の社会人になるまでのモラトリアム期間、どのように自分自身をデザインするか、体育の教師の道が閉ざされたので、
体育会系(当時器械体操をしていました)の部活に入る必要もなく、とにかく色んなことにチャレンジしよう。
と言うことで、3つのことを自分自身の約束事として決めました。
「教員免許を取る」こと、「普通自動車の免許取得」そして「北海道に行く」ことの3つは絶対叶えると決めて、
その他は、なんでもやろう!みたいな感じで、キャンパスライフが始まりました。
そして、「北海道行き」は案外早く訪れました。
単に行くだけなら、お金さえ貯めればいけるので、「それは面白くない」
当時、扇町公園の西隣に「学生相談所」なるものがありました。
そこに行けば、アルバイトを紹介してもらえるのです。
関西の大学生であれば、誰でも紹介してもらえたのではないでしょうか・・・
少し記憶が曖昧ですが、当時は、アルバイト情報誌とかが、まだ一般的じゃなかった気がします。
あっても、情報誌自体が有料だったり、人材派遣業も一般的ではなく、
大学生がアルバイトというと、「学相に行く」が定番だった気がします。
そこで、見つけたのが「夏季・酪農家アルバイト」です。
1ケ月近くの住み込みアルバイト、バイト代がもらえて、3食・寝泊まり付きです。交通費も出ます。
至れり尽くせり、と思って私はすぐに申し込みました。
酪農家のほか、昆布漁などもありましたが、私がチョイスしたのは、北海道帯広豊頃町の酪農家です。