1985年の夏の「1000人ツアー」の大失敗後、旅行会社から仕事をいただきながら、その赤字を埋め合わせて行きました。

やはり、モチベーションの低下は計り知れません。いけいけドンドン過ぎた反動です。

結局は「何でもお手伝いセンター」を辞めましたが、イベント業界への未練はありました。その後、それまでお世話になっていたイベント制作の会社にアルバイトスタッフとして、色々仕事をさせていただきました。実践を踏みながらの勉強でもありました。
マニュアルや進行台本の書き方・リスクヘッジのポイント、何を目的としてそれを作るのか、先輩からアドバイスを頂きつつ、手書きで作りながら、そのノウハウを蓄積して行きました。
そのように学びながら、「1,000人ツアー」の開催が、いかに甘いノウハウだったか、大いにその失敗を痛感したものです。

4回生になると、周りは就活のことで騒がしくなります。その当時は、売り手市場で
特に、金融・証券業界は大盛況で、私の友人もそこに向かって面接を受けまくっていました。リクルートから送られてくる会社案内のハガキをこれでもかと送っていました。
しかし、その後バブル崩壊、銀行は統合・再統合と今や当時の銀行の名前すら跡形もありません。証券会社に至っては、本当に泡となり、跡形もありません。
未来予想ができるとしたら、あの就職時の喧騒はなかったろうと思います。
全く、世の中どうなるか、わかりません。
そんな就活喧騒の真っ只中、教員免許取得に必要だったので、私は「教育実習」として母校の教壇に立っていました。

校訓は、誠実・努力・奉仕、今も変わりません。高校時代は器械体操部で3年間、朝昼、夕刻と練習の鬼と化していました。体育系クラブが強かったせいもあります。サッカー部は全国大会にも出ている強豪校でしたし、部活の先生は、元オリンピック選手もいました。そんな思い出深い、母校での教育実習です。あまりいい加減なことはできません。

ただ、
心のどこかに、「教師」はもういいかな・・・って感じで、少しそこへの情熱は薄くなっていた気がします。というのも、やはりイベント業界への未練があった気がします。
「教育実習」では7歳下の高校1年生を受け持ちました。40数人の瞳が自分に向けられる緊張感を今でも思い出します。また、みんなで歌った「HOUND DOGのフォルテシモ」を聞くとその当時の情景が走馬灯のように思い出されます。
それなりに充実した「実習」ではありました。教師はもういいかなっと思っていた私に情熱をくれたのは40数人の生徒たちでした。しかし社会に出たことのない自分が教師になるのは、少し早いのではないか、社会に出てから、教師を目指しても、それは遅い選択ではないだろう、そう結論づけ、結局採用試験は受けませんでした。

決断をするのは、、難しいことです。
「あの時、教師を目指していたら・・」
たられば、はいつの時代にもあります。

今となっては、色々ありましたが、イベント業界でお世話になっていることは、
有難いことだと感謝しております。

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