10年以上携わっている近畿大学の入学式、
3月も中旬過ぎると、ラストスパートのタイミング。
秋から始まった制作も仕上げに入る。
学生くんたちも、練習を重ねたパフォーマンスに磨きがかかってきた。

若者と一緒に何かを創り上げるだけで、こちらがエネルギーをもらう。
思えば、コロナ禍で、思うような活動もできずに過ごした彼らの想いを考えると、
思いっきり、はっちゃけちゃえって、エールを贈りたい。

素敵な入学式が、新入生はもちろんだけれども、
在校生の面々にとっても思い出深いものになることを祈って
ラストスパートを楽しんでいる。

 

4年前のコメント、新型コロナウィルスに世界中がパニックになっていた頃、イベント業界の行く末も見えず、手探りだった。
あれから4年、ある意味日常が戻ってきてはいるが、その後遺症は案外根深い。それでも前に向かって考えて考えて、考え抜くしかない。

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春の足音が聞こえる季節が、もうそこまでやって来ているはずなのに、世界中が、パニック状態。こんな時だからこそ、前向きに、耐え忍びたい・・・・
ピンチの時は、考えて考えて、考え抜く。
きっと、その向こうには、解決の扉があるに違いない。
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先日、和歌山ポルトヨーロッパにて、「ドローンパフォーマンス」を初めて見た。
テレビなどでは東京オリンピックなど様々な場所でやっているのを見たけれども、
生のパフォーマンスは初めてだ。
イベント屋としては、向学のためには是非とも見たかったので、タイミングとしては、良かった。
気象状況や、場所などの制約があるだろうけれども、10分間のパフォーマンスはそれなりのショーではあった。

プロジェクションマッピングも各所で行われているし、これからも、それなりに楽しめるパフォーマンスと言えるかもしれない。

これも、技術の進化の賜物だろうし、今後も益々、様々なパフォーマンスを見せてくれるのだろう。
ただし、気象など条件をクリアにしつつ、コスト見合いが課題かもしれない。

ドローンに関しては、流通や防災などの活用も研究されているし、実用化に向けて今後楽しみではある。
是非とも、被災地支援に活用できるように技術的に進化してほしい。
被災状況把握や物資補給など、天候に左右されない進歩を切に願う。

400機のドローンパフォーマンスを見ながら、想いはそちらに飛んでいた。

 


2024年令和6年になり、早18日が経過しました。

「明けましておめでとうございます」が言えないぐらい、
年始から地震が発生したり、考えられない事故や火災が起こっています。
また、有名人の方々の訃報が続き、なんとも辛い年明けを感じざる得ないです。

しかしながら、時は日々止まらずに過ぎて行くのは事実でなので、
改めて「今」を大事に感謝して生きていかなければならないと自戒します。

1月は、福笹をお返しに、また新たな「福笹」を頂きに、堀川戎に参らせていただきました。
1995年からなので、30年目となる。そして、弊社も今年の2月から30期目に入ります。
この業界で起業し過ごして来れたのも、出会った人々のおかげと感謝しかありません。
今、お付き合いしていただいている方々はもちろんのこと、最近お会いしていないけれども、
「その時」に出会った多くの人たちにも「ありがとう」を伝えたい。
「必要な時に、必要な人と出会った」ことは人生の縁に不思議な思いがします。

思えば、1995年1月17日、あの阪神淡路大震災が起こり、未曾有の事態に直面し
弊社も2月からスタートするぞという時だったので、ただただ唖然とするばかりだった。

その後も、失われた20年と言われる不景気、リーマンショック、新型コロナウイルスによる、
様々な業界への影響。
にもかかわらず、こうして過ごせていることに、こうべを垂れるしかない。

今なお、被災地で避難をされている方々にはお見舞い申し上げ、残念ながらお亡くなりになられた方々にはお悔やみを申し上げます。

これからは、笑顔がいっぱい咲き誇るように、祈るしかないのだけれど・・・

2024年・令和6年になりました。
新年早々令和6年能登半島地震が発生。
お亡くなりになられた方々に、お悔やみ申し上げるとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。昨年は1年以上にわたって準備した本番のために、石川県に頻繁に通っておりましたので人ごとではありません、出演者の皆さん、スタッフの皆さん、どうか無事でいて欲しい。僕ができることがあれば、なんとか手助けをしたい、そう思っています。
まだまだ、余震が続いています、どうか無事でと祈るだけです。
今日は5日、仕事始めです。
まだまだ、必要とされるなら気張りたい。
一期一会、常にその気持ちを忘れずにいようと思います。

2023年も、本日をもって仕事納めです。
取引先の皆様、協力会社の皆様、弊社に携わっていただいた皆様に感謝です。コロナが5類に移行し、ようやくイベント業界も以前のような形態に戻りつつあります。しかしながら、3年の歳月で失ったものもあり、新たに再構築していく必要があるのは確かです。時代の移り変わりとともに、様々な技術も進化しています。イベントに求められているミッションを実現するために、日々努力が必要です。2024年は、弊社が創業し、30年目を迎える事になります。人生の半分をこの会社とともに、過ごした事になります。新しい年を新たな気持ちで迎えるととに、原点にかえって、精進したいと思っております。皆様今年は大変お世話になり、ありがとうございました。来年度もどうぞよろしくお願い致します。

先週末、高校のが開催された。
42年ぶりに150名近くの同級生と再会。
当時568名の生徒数を誇るマンモス校だったので、
3年間同じクラスになっていない同級生は、顔は見たことあるけど、
話をしたこともない人の方が多かった。
当然、42年ぶりにあっても、「あの人、誰?」となる。
しかし、それはそれで、同じ空間で、同じ時代を暮らした面々なので、懐かしさを感じるものだ。

少子高齢化で、我が息子・娘たちは2クラスくらいしか同級生がいない状態。それはそれで、しっかりお互い知り合っているものだろう。

時代によって、そこは変わってくるので、多いからいいのか、少ないからいいのか、議論が分かれるところだけれども、
縁があって、同じ高校で、同じ時代を過ごした事実は変わらないし、
こうして42年過ぎた時に、姿・形は変われども、一堂に会することができたことには感謝しかない。

そして、もう少し、皆、元気で健康で健やかに暮らせることを心から願うばかりだ。また再会できる日を楽しみにしながら・・・

 

 

1年以上準備してきたイベントの本番が終わった。

演出家の師匠と、二人三脚で仕上げた舞台。

 

300名を越す出演者との調整・個別練習と合同練習。

音楽監督との打合せ、そして曲の収録、録音、

映像クリエーターとの映像製作の打合せ。

それぞれのセクションのプロフェッショナルたちと創り上げた舞台。

役割はそれぞれだけれども、一枚岩になれた気がする

 

長期間の準備中に沸々と湧き出る確執を乗り越えて、最後は同じ方向で舞台づくり。

演出家の想い、音楽パート、映像パート、そして舞台監督としてのミッション。

 

変なストレスがない中、舞台づくりに集中できた現場。

 

4大行幸啓の一つ・国民文化祭、やはりロイヤルがご臨席すると、空気感が変わる。

なんだろう、表現足らずだけれど、「優しさに包まれる」とでも言うのだろうか、、、

本当に、「穏やかな気持ちにさせられる」イベントだ。

 

この仕事に携われた、喜び、感謝、誇り、言葉では表現できないほどの想いが

心の奥底から溢れ出す。

もう何度も、ブログに書いているが、「奇跡の同窓会」再び・・・
1990年大阪鶴見緑地を舞台に、「国際花と緑の博覧会」が開催された。
国際博覧会協会(BIE)が、園芸博という特定の部門にテーマを限定した認定博。
2025年に開催予定の大阪関西万博は、登録博で、過去は、1970年の日本万国博覧会と、1975年の沖縄国際海洋博覧会が該当する。

話は、戻って、1990年の花博当時、私は26歳の若手だった。
そして、民間パビリオンのスタッフとして参加。
りそな銀行を中心に(当時は大和銀行)関西で生まれた企業40社が集まって出展した「大輪会水のファンタジアム」パビリオンの催事ディレクターとして勤務。
4月から9月まで、183日間の会期中、実に様々なイベントを企画、実施した。
屋外で、パビリオンに入場するまでの待ち客対策だ。
いかに、「待っていることを忘れてもらうか」が最大のミッションだった。
ミニコンサートあり、トークショーあり、パフォーマンスあり、またドリンクサービスあり、またペガサスをモチーフしたキャラクターマスコットのてんまくんは、お客さんの癒しとして、人気者に。
パビリオンも、出展企業としては、1〜2位を争うぐらいの人気に。知名度が上がれば上がるほど、待ち客対策が重要になったものだ。
暑さや、雨、風邪などの自然との闘いのほか、マスコミが結構殺到してきたので、そこの対応も大変だった。

マスコミ対応で、一番記憶に残っていることが、
会期も真っ只中の8月1日。その年も異常な夏の暑さだった記憶がある。
明確に日にちを覚えているのは、その日が「水の日」だったから。「大輪会パビリオン」のコンセプトは、『生命の根源・水』だったので、この日はとりわけ、いろんなイベントを実施した。
特に、お客様の前で2メートル以上ある氷の塊をおので削ってキャラクターてんまくんを作る氷像パフォーマンスは、清涼感を伴い、お客様の目を楽しませた。
そして、夕方近くに事件が起きた。
マスコミのテレビクルーが「てんまくんの着ぐるみを脱ぐところを撮影させて欲しい」と言っている、と広報担当。
しかし、着ぐるみをお客様の前で脱ぐことは御法度だ。
着ぐるみは、人が入っているのではなく、夢や憧れが入っているのだ。
汗をかいた、暑いと言っているバックヤードを見せることはできない。
その後、
マスコミと一悶着があったが、お互いの言い分を伝え合って、なんとか乗り切った気がする。

あれから33年・・・
いまだに、当時の館員、スタッフ、コンパニオンが集まり同窓会を開催している。ここ最近は、コロナ禍で延期になっていたが、基本2年に1回開催という、継続開催。
イベントは一期一会で、これほど続く同窓会を私は知らない。

以来、「奇跡の同窓会」と呼んでいる。

残念ながら、お亡くなりになられた方もいらっしゃいます。ご冥福をお祈りします。

そして、この同窓会開催に尽力しているコンパニオンの皆さんに感謝です。

今年も、また来月に開催される。

残念ながら、私は別件本番で欠席となるが、あの頃の笑顔を思いつつ盛会を祈りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弊社から15分もいけば大阪城公園に着く。

運動不足解消のため、僕は、時折散歩に出か

ける。新型コロナウイルス禍のここ3年間は、

インバウンドも途絶え、本当に、閑古鳥が鳴

く状態だったが、やっと最近は人出も戻って

きた。そして、何よりも嬉しいのは、そこで、

遠足や修学旅行の小学生の笑顔が見れること。

学校行事で思い出すのは、僕が小学6年生

(1975年)の修学旅行。その頃は大阪か

ら鳥羽・伊勢方面、2泊3日が定番だった。

当時は生徒も多くて、8クラス約400名の大

所帯、バスは1台に約50名、電車は全車両貸

切で、修学旅行専用列車だった。

何より楽しみだったのが、「行く前の準備」

決められた値段の中で、どんなおやつをチョ

イスするかや、グループ分けで気になってい

た女の子と一緒になれるかどうかなど、それ

だけで、ワクワクしていたことを思い出す。

そして、とりわけクラスで盛りあがったの

が、バスの中で一緒に歌うための「歌集」づ

くり。童謡唱歌だけではなく、当時の流行歌

を選んで、わら半紙に印刷して、みんなで一

緒に歌うために作った。歌はデータなどでは

なく、カセットテープで再生して流していた

ので、歌1曲流すだけでも、ちゃんと用意が

必要だったし、準備が大切だった。クラス独

自の歌集を作るのに、どんな曲を入れるか、

みんなで話し合いをしながら決めた。

「なごり雪」「22歳の別れ」「岬めぐり」

「翼をください」「学生街の喫茶店」「『い

ちご白書』をもう一度」など、今も歌い継が

れている名曲ばかり。

そんな中、担任のS先生が「入れて欲しい曲

があるんだけど・・・」と言って選んだ曲が、

チューリップの「心の旅」。当時この曲を知

っている生徒の方が少なかった気がするが、

先生のたってのお願いなので、賛成多数で歌

集に入れた。S先生が、バスの中で自ら歌っ

て聴かせてくれた。いい曲だったが、小学6

年生の僕たちにその意味がわかったかどうか

は覚えていない。もちろん、その他の流行っ

ていた曲の歌詞も同様に理解できていなかっ

ただろう。それでも、素敵な曲は心に響くも

ので、みんなで歌ったのを覚えている。

 

今でも「歌集」に入っていたメロディーを

聞くたびに、修学旅行でのバスの中の光景や、

当時気になっていた女の子の仕草を思いだす。

そして「心の旅」を聞くとS先生を思いだす。

その時の先生の年齢は定かではないけれども、

20代半ばくらいだったように思う。そう考

えると、S先生にとって「心の旅」はどんな

心情で歌っていたのだろうと、想像してみる。

流れゆく月日とともに、思い出は薄れてい

くけれども、メロディーが流れると、心の奥

底に眠っている光景が映像となって動きだす。

歌と共に思い出は生きていることを実感する

のだ。

 

大阪城公園の小学生の笑顔を見ながら、今

の子供達に遠足や修学旅行の「歌集」ってあ

るんだろうか、と考えてみる。彼らの3年間

は、大人のそれとはまた違う歳月だったので

はないか、思い出をたくさん作る日々にマス

クで過ごさざるを得ない、友達の素顔も見る

ことができない、一緒に歌を唄うこともでき

ないことなどを考えると、やはり少し複雑な

気持ちになる。

〈今から、楽しい思い出をいっぱい作れよ!〉

心の中でエールを送る。

スマホで持ち運びできる時代に、友達と一

緒に聞く歌の存在はどうなんだろう。便利な

時代ではあるけれども、個々の思い出よりも

友人と一緒に歌った曲を思い出として残して

欲しい。

私の仕事はイベント制作。様々なイベントを裏方として支えること。既にこの仕事を生業にして40年が経とうとしている。その原点は、大学時代に遡る。
「法律違反以外のことなら、なんでもやりますよ!」私は大学2年になって、友人と「何でも屋さん」なる会社を立ち上げた。今でいうベンチャー企業というやつだ。しかしながら、なんのノウハウもない我々ができることは「元気に、明るく、力持ち!」。
要は「困っているあなたをお助けしましょう」というお節介な商売というのが本当のところ。
 世の中わからないもので、実はこれが大当たり、1984年、昭和59年といえば、今と違って、インターネットなどない時代、ましてやスマホや携帯電話もない、「困ったことを解決する」のは、当時タウンページと呼ばれていた黄色い電話帳一つ。誰に、どこに、どう頼めばいいのかがわからない時代。そんな時代の要請にハマっていたのだろう。最初こそ、暇を持て余していたけれども、そのうち、1台しかない黒電話が鳴りっぱなし。
「換気扇が壊れたから交換してほしい」「化粧品のデモ販売をしてほしい」「吉本新喜劇の大道具を運んでくれないか」「披露宴を盛り上げてほしい」「獅子舞になってほしい」「ライブツアーの運転手をしてほしい」「ビール工場にアルバイト10人ほどきてほしい」などなど、ありとあらゆるお願い事が舞い込んできた。我々もここぞとばかりに、友人知人総出で依頼をこなしていく日々。今でいうところの人材派遣のようなものだ。
 仕事が集まるところには、人も集まる。
 徐々に、組織ができてくる。人が集まってくると、元気だけでは、立ちゆかない。管理体制を固めないといけない。突っ走っていた最初の頃とは随分勝手が違ってくる。不平不満も募ってくる。若いということは、その分我慢も足りない、世間を知らない。喧嘩も絶えない。何かをやり始める時は、「やるぞ!」の気持ちがみんなをひとまとめにするが、「やり続ける」うちにこれは違うんじゃないか、あの方がいいのでは、色んな壁にぶつかってしまう。小さな壁であるうちはいいが、やがて大きな壁が立ちはだかり、若さだけでは乗り越えられないことを知る。
 そんな時期、我々自身が企画実行したイベントが大失敗する。1500人乗りの大型客船をチャーターして1000人ツアーを企画制作。淡路島と徳島を繋ぐ大鳴門橋が開通した1985年、淡路島で「くにうみの祭典」という博覧会のようなイベントが開催された。そこに、若者を集めてオールナイトで客船で盛り上がろう!というイベント。我々スタッフは四方八方、集客を募るのに走り回った。
 しかし、盛り上がったのは最初だけ。集客のノウハウもない我々に1000人集めることは、あまりにもきつい現実だったのだ。
1000人ツアーどころか、100人ツアー。
結果、莫大な借金だけが残った。勢いだけで進むことの難しさと愚かしさを嫌というほど実感した。結局2年弱で「何でも屋さん」は解散。ボクは、就職活動をしながら、イベント制作の専門会社でアルバイトをし、ノウハウを勉強することにした。勢いだけでは、成し遂げられないことを実感した故の決断だ。
 必死に取り組んだこと自体は、失敗体験も血となり肉となっているけれども、それが仕事になったとき、やはり失敗は許されない。
イベントは成功して当たり前。
 あの2年にも満たない「何でも屋さん」の経験が、今、40年この業界で働かせていただいている私の「原点」として活きているのは確かである。

インド・ネパール17日間。僕が社会人になる前の大学の卒業旅行。

今もなぜ、「インド」だったのか、作家、藤原新也さんの「印度放浪」という本を読んだせいだったのか、それだけではなかった気がする。働き出すと自由な時間がなくなるので、その前に「気軽な旅をしてみよう」そんな思いだった。もう36年前になる、1987年。
コルカタ(旧カルカッタ)というインド北東部の都市へ入って、17日目にニューデリーから出国。決まっているのはそれだけ、宿泊先も、行先も全く自由な、自分自身で決める旅。初めての海外で、ひとり旅。頼りは『地球の歩き方』という一冊の本のみ。今考えると、こんな無謀な旅は若さゆえにできたのだろう。今では、こんなことは考えもつかないし、思っても実際はできないだろう。  コルカタに到着したのは、3月初旬だったけれども、空気はモワッとし、暑い。えも言えぬ匂いが鼻につき、町中が喧騒に包まれている。道には牛が堂々と歩き、糞だらけ、ゴミも散乱している。物乞いの子供達が近寄ってくる。僕は、異国に来たことを強烈に感じ戸惑った。  まずは、最初の目的地へバスと列車を乗り継ぎながら向かう。現地ではインド人に色々助けてもらった、バスの停留所や駅のホームなど、行先を言うと連れてってくれる、お礼に、百円ライターをあげると、こちらがびっくりするくらい喜んでくれたのを思い出す。 困ったのは、やはり食事だ。渡航前から水には気をつけるように言われていたので、極力生水は避け、水分は果物で摂っていた。しかし果物を洗っていた水が残っていたのか、何度もお腹をくだした。抗生物質でなんとか回復はしたけれど。あと、案外役に立ったのが、蚊取り線香だ。蚊だけではなく、よくわからない虫が部屋の中に住んでいる。初めは驚いたが、次第にあたりまえになっていた。そんな時の蚊取り線香は無敵だった。
また、その日泊まる宿を探す。今はどうかわからないが、当時は安い日本人が集まるユースホステルもあったので、案外そこは苦労をした記憶はない。
ドタバタしながら、最初の目的地、バラナシへ。ヒンズー教徒の聖地と呼ばれる場所。ガンジス川の川辺にある、よく沐浴風景がパンフレットなどに載っている場所だ。右岸には、寺院や巡礼者の宿舎など、所狭しと建物が立っているが、向こう岸の左岸はだだっ広い土地が広がっているだけ、インドでは左は不浄と思われている。理由は様々なんだろうが、トイレは左手、食事は右手。
川の色も黄土色で決して清潔とは言い難いが、巡礼の人々は、川に入る。また、そこで暮らしている人々は、歯磨き、洗濯などの日常生活を営んでいる、まさに混沌としている風景が広がっていた。
川辺で、目に入った光景に僕は少し緊張し、固まっていた。煙がゆっくりと立ち昇っている。「火葬場」だ。じっと見ていると、目つきの鋭い、彫りの深いインド人が耳元で「ロング ルッキング プロブレム」と囁いていた。(ここは言うことを聞かないとヤバいな)そっと、視線を外し、英語が全くわからないフリをして、その場を離れた。その後、観光客用の小舟に乗る。川面を見ながら、「あぁ、僕は単なる観光客なんだ。決して、川には入れないし、そこで歯磨きもできない。」

彼らにとって、街の汚濁や喧騒などは実に些細なことなのだ。輪廻転生、「生まれ変わる人生」に祈りを捧げに来ている。火葬されガンジスに流されることで全ての罪が洗い流され、生まれ変われると信じているのだろう。
カオスの象徴のようなガンジスのそれは今なお、僕の心の奥底に刻印されている光景の一つである。

ご無沙汰してます。

更新せずに、1ヶ月以上経ってしまいました。

 

すっかり、春らしい季節になってます。

やっと花粉症も止まりつつありますが、まだ安心できません。

新型コロナも、ずいぶん落ち着いてきた感があります。

しかし、マスク着用の習慣からなかなか抜け出せないのも確かです。

まぁ、着用するもよし、しないのもよし、あまりどちらかに偏るのもどうかと思います。徐々に、コロナ前に戻れば良いなと思います。

 

しかし、1ヶ月の間に、10年させていただいている大学さんの入学式の本番があったり、勉強中のエッセイが活字になってエッセイ集に掲載されたり、中学時代の同窓会で、懐かしい面々と再会できたりと、あっという間に、時間が過ぎていきます。

 

年齢を重ねると、体のあちこちに支障が起こったり、気は若いつもりであっても、無理は禁物ですね。

自然の流れに抵抗はできませんが、「今できること」を、やはりやっておかないといけないと思うこの頃です。

 

「今、会える人と会う」「今、できることをチャレンジする」「今を大切にする」

最近、痛切に感じます。

 

皆さん、体調管理を怠らずに、またお会いしたいものです。

ツꀀ
2020年頃から、新型コロナウイルス感染症による、自粛生活が始まり、イベント業界も
相当な対応を迫られ、少しずつ緩和されてきたとはいえ、3年以上が過ぎた。
飲食含めて、普通の生活に戻りつつある中、イベント業界も意識はしつつも、元のイベント形態に
戻りつつある。
3年という月日が、失わせたものはあまりにも大きい。
しかしながら、時は戻らない。
「これから」を考えたいし、向かってほしい。
失ったことで気づき、これから得るものもあるはず、リスタートの季節と思って、新しい春を迎えたい。
春の足音が聞こえてきそうな、陽気な日々が嬉しく思う。
本日1月31日は弊社の1年の締日。
明日から、29期目に入ります。
毎年、1年の締めくくりにあたり、今期も無事に終えることができたことに感謝します。
弊社と業務を共にしていただいている、取引先様、協力会社様にはお礼しかありません。
3年以上にわたり、コロナ禍という異常な状態の中、イベント業界もその荒波に翻弄され、
今なおその波は収まったとは言えません。
しかしながら、今後、大阪・関西万博が控えています。
イベント業界も、徐々に上潮になっていくのではないでしょうか。
私も、20歳の頃からイベント業界にお世話になり、40年ほどこの業界と共に、生きてきました。
恩返しと共に、まだまだ若い人たちと切磋琢磨していきたいと思います。