大学生活も終わろうとしている、1987年。この時期は確実に売り手市場でしたね。当時リクルートに会社案内請求ハガキを送ると、とんでもないくらいのパンフレットやガイドブックが自宅に送られてきたものです。

内定者は、まさしく囲われて、海外旅行とか・・・・・・・・

金融・証券などは超人気ジャンルでしたね。

私の友人もリクルートスーツに身をつつんで、会社回りをしていたものです。

私は、教育実習で、教師職にげんなりだったので、・・・・どこかフワフワしてた気がします。

そんな時、何でもお手伝いセンター時代に知り合った会社から、誘っていただきました。イベント業界にやり残したことがあったことと、自分自身の力量を試すには大きな会社よりは小さな会社のほうが、ノウハウ・仕事を覚えるのも早かろうということで、当時3人しか社員さんがいない小さな会社に就職が決まりました。

まぁ、何社かテレビ局や大手の広告代理店も受けましたが、コネのない自分はかすりもしなかったので、逆にその小さな会社での決意は固くなった気がします。

最近、大学生と就活などの話をする機会がありましたが、「どこの会社」に入れるかを気にしているヒトが多いですね。本当は「何をしたいのか」が重要なのに、・・・ましてや、昨今の状況を鑑みてみると、10年後20年後その「大きな会社」すら、なくなってしまう可能性があります。事実黄金期(1987年)に就職した証券会社はことごとく、バブルとともに、無くなってしまいました。

私の基準値は「会社」が無くなっても自分のノウハウで食べていきたい、その為に小さくても仕事を覚えられる会社がいい、と考えてました。

これは、1000人ツアーの大失敗が教訓になっています。やはり基礎知識、基礎からのノウハウがとても大切だということ。

ということで、1987年3月から、社会人として働くことになります。

その前に、卒業旅行ということで、「インド・ネパール17日間一人旅」に出かけます。

その話は、次回に・・・・・・

「若者よ、アジアのウミガメとなれ」(加藤順彦著)を一気に読みました。

既得権益の日本から飛び出して、アジアの無限の可能性にチャレンジせよ・・・・・

いみじくも、昨日ホリエモンこと堀江貴文氏が仮釈放されて、インタビューしてましたね・・・・

かの、ITバブルを演出し、終焉させた主人公と言えるかもしれませんが、どうもしっくりこないのは、その後の様々な同様、いやそれ以上の「事件」にも拘らず、堀江さんのみが、見せしめに感じてしまうのは、私だけでしょうか・・・・

真偽のほどはわかりませんが、

日本ほど、ベンチャーが育ちにくい土壌もひとつの確かな真実であるかもしれません。

四方が海で囲われている我が日本において、今後どこに勝機を見いだすべきか、を考える。

本書は少し、そんな思いにヒントをくれる1冊で、

私も、2年前にベトナムに2回ほど行きましたが、そのエネルギッシュなパワーに驚いたものです。

本書の中にも少し書いてありますが、

ホーチミンの道路はバイクが埋め尽くすほど走っています。「どこ行くね?」って感じで・・・・・・・

その答えが、「朝だから、嬉しくて走っている!」

行くあてなどなく、ただただ、嬉しくて走っている!!平均年齢が20代のベトナムには無限の魅力を感じたのも確かです。

 

私も、少しアジアで考えたい、、、、、、

1985年・夏1泊2日の1000人ツアーは決行されましたが、その成果たるや、散々たるものでした、、、それでも参加いただいた方々には満足いただくように、精一杯のおもてなしをしました。
慣れない接客業含めて、スタッフたちも一生懸命に働きました。

しかし、所詮自己満足です。

お客さんからは、予定通りのイベントが開催されないこと、などクレームの嵐です。

そらそうです。1000人集まるはずが、300人も乗船してないのですから・・・・・

兎にも角にも、やりきることがミッションと・・・・・・

そんな時はやはり、ココロもササクレてくるものです。

若いということは、エネルギーが一致している時はものすごいパワーを発揮しますが、一旦崩れると、その負のパワーがほころぶのも、早い。

結論は大失敗の1000人ツアーでした。

その後、ご迷惑をかけた方々には、働いてお返しするしかありません。

あらためて、思うことはノウハウもそれほどない、若いというだけのパワーだけでその器以上のプロジェクトに取り組んだということ、自分たちを過信していたということ。

その後、「なんでもお手伝いセンター」は解散的になり、結局はばらばらになりました。

私は、就活しながら、
学校の先生になるべく、教育実習に母校に通う日々が始まりました。

それでも、教育実習で体験した裏の教育の世界・・・・暗澹たる思いの中、やはり、中途半端でやり残した、イベント業界のアルバイトを未練がましく、追いかけていたのでした。

「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」は後、ロープマンから受付担当、そしてフロアーADと、年々役割が偉くなっていきました(笑)

その後、イベントスタッフの仕事が増えていきます。

アイドル野外コンサートの警備、ライブツアーの運転手兼AD、プロ野球12球団スポーツフェスティンバル選手管理、大鳴門橋歩こう会誘導スタッフ、ツール・ド・フランスの警備、ラジオ船上公開放送のスタッフ、ディスコパーティ企画、平塚七夕まつりの七夕買い付け、獅子舞、七福神パフォーマンス、水中どぼんゲーム、タレント送迎、甲子園若人の祭典AD、ビアガーデンでのDJステーションフロアAD、などなど。

そして、

1985年(S60)6月淡路島と徳島県を結ぶ大鳴門橋が開通。明石海峡大橋早期着工をめざし、淡路島全島を舞台に繰り広げられたのが、「くにうみの祭典~淡路・愛(あい)ランド博」

そして、その頃、その祭典の様々プロジェクトに関わることになります。

我々、「なんでもお手伝いセンター(のちMS企画に改称)」の若手スタッフは、もう “行け行けドンドン”でしたね。

今思えば、
大きなプロジェクトに関わっているだけで、そのプロジェクト全体を仕切っているよな錯覚に囚われていたんですね。

大鳴門橋が開通する前は、「大鳴門橋を歩こう会」イベント。
船で行く「淡路くにうみの祭典」では船上ラジオの公開放送イベント。
新しくできた淡路島のペンション取材。

ありとあらゆる、島内イベントにかりだされました。
それが、ある意味若いスタッフのモチベーションになっていました。

そんな時です、夏に1500名乗りの船を使った「1000人ツアー」をやらないか・・・・と。

上げ潮の時に、ますますモチベーションがあがるプロジェクトです。
その時の取材がこの「情報誌ぴあ」です。

もう逃げるわけにはいかない・・・・・・2つ返事での決行でした。(続)

私は、その日から「関大前雀荘」通いから、「武庫之荘・何でもお手伝いセンター」へ通うことになります。

携帯電話等無い時代ですから、机に固定電話1本あるだけのワンルームでの生活が始まりました。

とにかく、「何でもお手伝いセンター」の存在を知ってもらうために、チラシを配りまくりました。マンション、アパートの郵便受けに入れるポスティング。通勤客相手に、武庫之荘駅前でチラシ配布・・・の日々。

そして、初めての何でも屋の仕事・・・・・・

場末のスナックの「換気扇洗い」でした。

とにかく友人と2人でそこに向かい、換気扇を取り外し、洗剤はアメリカ製のもので特殊な洗剤と言って、ゴシゴシ油汚れを取りました。今だから言えますが、普段そんなことしたことが無い二人です。誤摩化しながら小1時間で終えて、元通りに取り付けて、二人で報酬が3,000円だったと思います。

が、

その後クレームの電話・・・換気扇がちゃんと取り付けてられなくて、落ちてくる。すぐに舞い戻って平謝りしながら、事なきを得たのが最初の“仕事”でした。

その後も、ビール工場の瓶詰め、化粧品のデモ販売、引越の手伝い、ラウンジへの客呼び込み、テキ屋でのイカ焼き、牛乳配達、他人の披露宴のアトラクション出演、獅子舞パフォーマンス、吉本新喜劇の大道具の運搬運転手等等。

様々な仕事が舞い込んできました。

とともに、

スタッフも増えていき、友人・知人がまた知人をと・・・・・

登録スタッフだけで、200名以上になっていきました。

 

そして、初めてのイベントの仕事以来がありました。

日本テレビ系の事業「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」

学生アルバイトを10人ほど、集めてよ・・・・・ということで、場所は忘れてしまいましたが、「ロープマン」の役割でした。そう、YesかNoかで左右に分かれる時のロープマンが私がこの業界で初めて経験したイベントスタッフだったのです。

その後も様々な仕事をこなしながら、20歳の青春を謳歌していました。(続)

 

1年間の暗い浪人生活から、解き放たれた30年前の春・1983年、私は関西大学経済学部に通うことになりました。

本当は、体育の先生になるために、体育学科志望だったんですが、当時の共通1次試験に阻まれて、「社会科の免許」が取れる大学を2次志望として、合格したのが、関大でした。

教員免許を取るための「単位」を選択し、春のキャンパスライフに胸トキメかせていたのを、思い出します。

夏休みには、「北海道の牧草農家で1ヶ月間の住み込み」のアルバイトをして、お金を貯めて、車の免許を取り、あとは、「教員免許を取る」ことで、ほぼ、私の大学生活での目的は終わったと言っても過言ではありませんでした。

それからは、ひたすらアルバイトの日々でした、「学相(学生相談所)」通ってアルバイト紹介してもらって・・・・・・・・その間は、関大通りにある「雀荘」に入り浸り、授業の間に遊んでるのか、遊んでる間に授業を受けているのか、全く怠惰な生活を繰り返してた気がします。

そんなある日、高校時代の友人から1本の電話があり、「おもろいことやるから、一緒にせえへんか・・」という誘いの電話がありました。

阪急武庫之荘駅から歩いて5分ほどのワンルームマンションに友人は私を連れていき、A5 サイズのチラシを見せて、「今からポスティングや」

なんか、嵌められた気がしましたが、そこは好奇心旺盛な若者だったので、「ええままよ」と・・・・

一緒にポスティングをしたことで、

「この業界への見えざる道」が用意されてたのかもしれません。(続)

 

Vol.9 箏を奏でるシンガーソングライター 真依子さん

https://www.facebook.com/kansaichikara

何度か、ご一緒に舞台をさせていただきました。

とてもキュートな彼女の創る曲に、癒されます。

箏の曲に「言葉」が風にのって舞っているような、なぜかホッコリする真依子さんの歌・・・・・

このたび、NHKのみんなのうた4月5月の新曲として「ふきとひよこ」が放送されます。
http://maiko-net.com/news/

是非、ご覧いただければと思います。

弊社、創立当初、初めての仕事は、春先に「電話料金格安サービス加入促進キャンペーン」でした。

ディレクターとスタッフで、終日、お客さんにその内容を説明して、入って頂く。ある程度のノルマがあったので、ゆるくない仕事でした。

大手量販店での加入促進、大学生協での展開・・・・

キャンペーンのステーションの設置、お店のご担当者への挨拶。控え室の確認、備品、などのセッティング。

を数少ないスタッフで、朝一にこなす。

この展開が同じ日に何カ所もあり、その管理も大変でした。また報告書もその日に提出しないといけない。当時はメールなどまだ一般化していないので、FAXのある所からしないといけない。

しかし、本当に当時のスタッフには助けて頂いた、気がします。

ニューズ最初の仕事は、やはり多くのスタッフに助けてもらったキャンペーンでした。

今、注目のクリエーターさんです。イラストや立体クラフトなど、とてもキュートな作品を創られています。

何度か、お会いしましたが、彼女の作品にはまさに、“癒し”がてんこ盛りですね。

http://fuumiing.com/information.html

ふわもこアニマル倶楽部

https://www.facebook.com/fuwamocoanimal

 

日本テレビ「スッキリ!!」で新キャラクター開発プロジェクトのコーナーに羊毛フェルトで創ったキャラクターを応募したら応募総数1877点の中から最終選考で20点の中に選ばれました。

今日と明日サイトで投票受付しています★NO.17に投票していただけたらウレシィです(*´ω`*)どうぞ宜しくお願いいたします。
http://www.ntv.co.jp/sukkiri/new_character/index.html

で、今日の23:59までです。・・・・是非清き一票を。

昨日は、kogakusyu翔のエキコンに行ってきました。
大阪駅の5階「時空の広場」寒風の中、たくさんのお客さんが手拍子して盛り上がっていましたね。
次回は4月19日(金)です。その頃は、キット暖かくなっていると思います。

 

http://www.kogakusyu-sho.jp/live.html

関西のチカラ縲恚Z志輪人伝縲徂ttps://www.facebook.com/kansaichikara

でもご紹介させて頂いていますが
2005年から、月一回開催の「大阪内海塾」に通っています。
気力の補填をコンセプトに、マーケティング(仕組み)とマネージメント(仕掛け)の考え方・捉え方を学んでいます。

今回、大阪内海塾のFacebookページで内海塾長が過去発行されていたプライベートニュース「内海新聞」を紹介していきます。
そこには、ビジネス二おける、仕組み・仕掛けのヒントが満載です。
是非、ご一読をオススメします。

https://www.facebook.com/utsumijuku

Vol.5-3 kogakusyu翔

21日(木)大阪駅でエキコンがあります。
是非、ご都合の合う方は・・・・・
詳細は、下記で確認ください。

http://www.kogakusyu-sho.jp/live.html

Vol.6-3 内海勝統さん(内海塾塾長)

大阪内海塾のFBページです。
徐々に情報をお知らせしますので、是非「いいね」お願いします。

https://www.facebook.com/utsumijuku?fref=ts

Vol.7 木下 聖浩さん

木下さんとは、弊社創業時からディレクターとして助けてもらっています。

そんな木下さんの芝居を見て感激したのが「美味しいカレー」という芝居のマスター役の木下さん。

なんて言うんでしょう・・・
所謂「渋い役者」さん
台詞を語らなくても、雰囲気(表情・仕草・空気感)で芝居ができる役者さん、です。

芝居のことは、素人の私ですが、木下さんの芝居は一押しです。

今週金曜日から「こんにちは、母さん」・・・・
是非、ご都合つけて見に行ってください。

https://www.facebook.com/events/156217594528964/

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社会人1年目1987年、毎週日曜日、神戸は三宮に通っていました。三宮ビブレ館内でVJ stationなるディスクジョッキーのフロアディレクターをやっていました。

館内のお客さんに、最新の映画情報や、アーティストのプロモーションビデオを紹介するという、ディスクジョッキーの中継版みたいなこと・・・・

毎週台本を手書きして、構成を考えていたものです。

今週の占い・・・・牡牛座「ラッキーカラーは・・・・」ってこれ、何かの雑誌の占いを噛み砕いて写してたなぁ・・・もう時効やけど。

でも、当時のDJのヒトは怖かったなぁ。まぁ私がペーペーだったせいもあるけど。プロ意識が凄かった・・・・
「Q」のタイミングひとつで怒られたものです。

そのおかげで、今もこの業界でごはんを食べさせてもらっているんですが・・・・懐かしの三宮ビブレ。