Category Archives: 中野ヒストリー

人は、時として「決めなければいけない」時がある。
「決断」という大げさなタイミングじゃない時でも、決めなければ、進まない。

会社を辞める・独立する・新しいことを始める、結婚する。等など。

人生は、決断の連続かもしれません・・・・・・

そんな時、
私のメンターでもある師匠から教えられたこと、
「決断の法則」

1:自分がずっと、やりたかったことなのか・・・・
2:その人(自分自身含)は信用できるのか・・・・

この1と2の2つが、OKであれば、GO
ひとつでも、△もしくは笶撃ナあれば、STOP

結局、うまくいかないことの方が多い中で、1も2も納得済みであれば、うまくいかなかったタイミングに問題がある、ということ。

しかし、1もしくは2が納得してなければ、
失敗した言い訳、・・・・・・

「あまりやりたくなかったんだよね・・・」
「あいつは信用できなかった・・・・・・」

チャレンジした時間が無駄になる。
そもそも、戻る場所が変わるし、その原因が違うところに、行ってしまう。

悩みながら、いろんなことにチャレンジする決断は大きいけれども、
実は、普段から考えていること、その延長戦上にその答えがあるような気がします。

なので、

あまり、深く考えずに、「ええままよ」の決断も必要かもしれないです。

写真: 「決断の法則」</p>
<p>人は、時として「決めなければいけない」時がある。<br />
「決断」という大げさなタイミングじゃない時でも、決めなければ、進まない。</p>
<p>会社を辞める・独立する・新しいことを始める、結婚する。等など。</p>
<p>人生は、決断の連続かもしれません・・・・・・</p>
<p>そんな時、<br />
私のメンターでもある師匠から教えられたこと、<br />
「決断の法則」</p>
<p>1:自分がずっと、やりたかったことなのか・・・・<br />
2:その人(自分自身含)は信用できるのか・・・・</p>
<p>この1と2の2つが、OKであれば、GO<br />
ひとつでも、△もしくは笶撃ナあれば、STOP</p>
<p>結局、うまくいかないことの方が多い中で、1も2も納得済みであれば、うまくいかなかったタイミングに問題がある、ということ。</p>
<p>しかし、1もしくは2が納得してなければ、<br />
失敗した言い訳、・・・・・・</p>
<p>「あまりやりたくなかったんだよね・・・」<br />
「あいつは信用できなかった・・・・・・」</p>
<p>チャレンジした時間が無駄になる。<br />
そもそも、戻る場所が変わるし、その原因が違うところに、行ってしまう。</p>
<p>悩みながら、いろんなことにチャレンジする決断は大きいけれども、<br />
実は、普段から考えていること、その延長戦上にその答えがあるような気がします。</p>
<p>なので、</p>
<p>あまり、深く考えずに、「ええままよ」の決断も必要かもしれないです。

年賀状のやり取りしかしていない、小学・中学校時代の友人と、30年ぶりに再会、もう一人の友人はまさしく、中学以降の再会なので、36年ぶりの再会・・・・・

1時間だけのお茶をしながらの話しでしたが・・・・・

数年前に同窓会をしたということで、その写真を見せていただきました。残念ながら私は参加できなかったので・・・

小中学校の
9年間同じ学校で過ごした多感な時代を振り返りつつ、

どうしても思い出せない人、随分変わってしまったけど面影がある人。
懐かしさで、思わず40年ほどまえに、タイムスリップしてしまいました。

また、恩師や友人の早すぎる訃報を聞くにつれ、その頃の思い出がブワーっと心の中から溢れ出してきました。

その頃、私の住んで居た町は大阪市の端・東淀川区井高野・北江口で、三方、川に囲まれた田舎町でした。草むらや沼があちこちにあるような・・・
今は地下鉄が通ったりして、随分様変わりしてしまいましたが・・・・

私も、その地を離れ月日が経ってしまったんですが、
学友たちは、みんな元気にどこかで頑張っていると、時折アルバムなど見ながら、思い出に浸っていたものです。
また、いつか会えるだろう・・・・

しかし、恩師友人の訃報に接すると、会えるときに会わないといけないな、という思いにとらわれます。

確実に歳を重ねていく歳月の中で、メールや年賀状だけではなく、会えるタイミングには、会いたい。

多感な時代を共に過ごした「友たちに」
もしかしたら、町は変わっても、その時代の友が私の故郷なのかもしれません。

36年前にタイムスリップ</p><br />
<p>年賀状のやり取りしかしていない、小学・中学校時代の友人と、30年ぶりに再会、もう一人の友人はまさしく、中学以降の再会なので、36年ぶりの再会・・・・・</p><br />
<p>1時間だけのお茶をしながらの話しでしたが・・・・・</p><br />
<p>数年前の同窓会をしたということで、その写真を見せていただきました。残念ながら私は参加できなかったので・・・</p><br />
<p>小中学校の<br /><br />
9年間同じ学校で過ごした多感な時代を振り返りつつ、</p><br />
<p>どうしても思い出せない人、随分変わってしまったけど面影がある人。<br /><br />
懐かしさで、思わず40年ほどまえに、タイムスリップしてしまいました。</p><br />
<p>また、恩師や友人の早すぎる訃報を聞くにつれ、その頃の思い出がブワーっと心の中から溢れ出してきました。</p><br />
<p>その頃、私の住んで居た町は大阪市の端・東淀川区井高野・北江口で、三方、川に囲まれた田舎町でした。草むらや沼があちこちにあるような・・・<br /><br />
今は地下鉄が通ったりして、随分様変わりしてしまいましたが・・・・</p><br />
<p>私も、その地を離れ月日が経ってしまったんですが、<br /><br />
学友たちは、みんな元気にどこかで頑張っていると、時折アルバムなど見ながら、思い出に浸っていたものです。<br /><br />
また、いつか会えるだろう・・・・</p><br />
<p>しかし、恩師友人の訃報に接すると、会えるときに会わないといけないな、という思いにとらわれます。</p><br />
<p>確実に歳を重ねていく歳月の中で、メールや年賀状だけではなく、会えるタイミングには、会いたい。</p><br />
<p>多感な時代を共に過ごした「友たちに」<br /><br />
もしかしたら、町は変わっても、その時代の友が私の故郷なのかもしれません。
ここ数年、1月3日に会社に出ます。電話も当然鳴らず、メールも営業メール以外入ってこない環境の中で、今年の決意を整理します。

年末年始はある意味「感謝と決意」のタイミングかもしれません。

年末は、1年を兎に角、健康に過ごせ、様々な出会いに感謝する時。
年始は、この一年に期待と決意そして覚悟する時。

それぞれの過ごし方があると思いますが、ここ数年の私の年末年始の過ごし方です。

「Next Year Next Stage」

1年1年が勝負の年、常に次のステージへ向かう気持ちを表現しています。

今年の2月から弊社21年目に入るにあたって、あらためて、今まで出会った方々との縁の不思議さを思わざる得ません。

挫折は、毎度のことですが、挫けずにやってこれたのは、必ずそんな時に、助言をいただく出会いがあったからこそ、乗り越えられたと思います。

ここ最近の出会いは年下の方々がほとんどになってきました。

少しだけ、長く生きて経験している分、何かアドバイスができればとおこがましくも思います。

いつの世も、不安と不信とそれでも微かな期待を夢見て前を向いて生きたい・・・・・・
日本の今の状況を省みた時に決して安穏とはできない気がします。

だからこそ、世代を超えて、ひたむきに前を向いていたいと思います。

「前のめり」に生きたいと思っています。
ただ、今年は少し一拍おいて、ゆったりと生きたいとも思います。

自分に起こることには「意味がある」

そのことを、しっかり自分自身捉えて、乗り越えていきたいと思います。
本年も出会ったすべての皆様に、よろしくお願いいたします。

窶板ꀀ至福ツꀀ- 場所:ツꀀ株式会社ニューズ
写真: 2015年 期待と決意そして覚悟</p>
<p>ここ数年、1月3日に会社に出ます。電話も当然鳴らず、メールも営業メール以外入ってこない環境の中で、今年の決意を整理します。</p>
<p>年末年始はある意味「感謝と決意」のタイミングかもしれません。</p>
<p>年末は、1年を兎に角、健康に過ごせ、様々な出会いに感謝する時。<br />
年始は、この一年に期待と決意そして覚悟する時。</p>
<p>それぞれの過ごし方があると思いますが、ここ数年の私の年末年始の過ごし方です。</p>
<p>「Next Year  Next Stage」</p>
<p>1年1年が勝負の年、常に次のステージへ向かう気持ちを表現しています。</p>
<p>今年の2月から弊社21年目に入るにあたって、あらためて、今まで出会った方々との縁の不思議さを思わざる得ません。</p>
<p>挫折は、毎度のことですが、挫けずにやってこれたのは、必ずそんな時に、助言をいただく出会いがあったからこそ、乗り越えられたと思います。</p>
<p>ここ最近の出会いは年下の方々がほとんどになってきました。</p>
<p>少しだけ、長く生きて経験している分、何かアドバイスができればとおこがましくも思います。</p>
<p>いつの世も、不安と不信とそれでも微かな期待を夢見て前を向いて生きたい・・・・・・<br />
日本の今の状況を省みた時に決して安穏とはできない気がします。</p>
<p>だからこそ、世代を超えて、ひたむきに前を向いていたいと思います。</p>
<p>「前のめり」に生きたいと思っています。<br />
ただ、今年は少し一拍おいて、ゆったりと生きたいとも思います。</p>
<p>自分に起こることには「意味がある」</p>
<p>そのことを、しっかり自分自身捉えて、乗り越えていきたいと思います。<br />
本年も出会ったすべての皆様に、よろしくお願いいたします。

高校受験・・・・
当時は私立は、滑り止め。
府立が本命、という中で、
自分の偏差値に基づいて、「受験校」を決めていました。

大学進学を見据えるか?→進学を考えるなら、摂津高校
高校で野球を続けるか?→野球するなら、島上高校
一か八かの勝負をするか?→両方とるなら、東淀川高校

今の偏差値はわかりませんが、当時はこんな感じです。

結局、大学行くなら「摂津」ということで、摂津高校に受験・入学しました。

そこには、「野球部」がありませんでした。

当時、摂津高校はサッカーが強く、大阪で全国大会を狙える強豪校でした。実際何度か全国大会に出てます。
そのせいか、体育教員の先生は、元オリンピック選手など、その業界では名だたる有名人が沢山いました。
その頃は、「野球」はスポーツじゃない、投手と捕手のスポーツ、というような風潮があったようです。
まぁ、サッカーが強かったせいで、グランドを広く使う野球が敬遠されていたのかもしれません。

野球少年の私は、ちょっと残念に思いつつ、高校生活をどのように過ごすか、やはり部活には入りたいと、思って様々なクラブ見学をしました。

そして、いまでもなぜだか、不思議なんですが「器械体操」というま全く興味もなかったクラブに入部することになります。
たまたま、同じクラスになった友人が「センス良い」とおだてられて入ったクラブが体操・・・・
私も、その友人に連れられて、勢いで入部した感じです。

当時「器械体操」(6種目)は減点競技です。10点満点から、規定演技のミスから減点をしていく競技です。落下した、技を抜いた・・等等。
所謂決められたことが出来て当たり前・・という競技です。
今のように、難度の高い技を入れて加点されるものではありませんでした。

コマネチ(当時ソ連)選手が10点満点連発したオリンピックで点数表示板に「10点」がなく、しかたなく、「1点」と表示したのもそのためです。

野球やサッカー、ラグビーなどの加点競技、テニスやバレーボールなどの決められた点数を早く取った方が勝つ、そんな競技とは明らかに違うルールの器械体操。

それは、
「練習で、できない技」は、「試合では絶対できない」という事実です。
「練習で、できた技」も、「試合では絶対できる」という、保証の無いのも事実です。

「器械体操」を3年やり続けたことは、その後の私の人生に大きく影響を与えたことは確かです。

http://www.jpn-gym.or.jp/

日本体操協会 | Japan Gymnastics Association
www.jpn-gym.or.jp
日本体操協会オフィシャルサイト
1964年の今日10月10日、東京オリンピックが開催されました。
私が生まれた次の年ですから、当然覚えていませんし、後々、ビデオなどで見た記憶が残っているだけです。
高度経済性成長を体現すべく、オリンピックに併せて、東海道新幹線、首都高速道路など、インフラも整備されていった時期でもあります。

いみじくも2020年、東京でオリンピックが開催されます。

あの頃とは、時代も日本の状況も、世界情勢も全く変わっていますので、「東京オリンピック2020」の在り様も当然変わって来るはずですね。
経済優先の、50年前。

政治とスポーツは別といえども、どこかで暗い影を落としているのも確かな真実であり、不確かな今の世界の中で、オリンピックが果たす役割、ひいては極東日本が果たすべく役割は大いにあるような気がします。

唯一の戦争被爆国として、祈り平和を希求し宣言し続けることは、様々な紛争、混乱が止まらない世界への警告として、日本が果たすべき役割は決して小さくはない、と考えます。

様々な困難を克服すべく、「東京オリンピック2020」が世界平和の一助になることを願ってやまない、50年前のオリンピックを思いつつ、6年後のオリンピックに思いを馳せます。ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: 東京オリンピック</p>
<p>1964年の今日10月10日、東京オリンピックが開催されました。<br />
私が生まれた次の年ですから、当然覚えていませんし、後々、ビデオなどで見た記憶が残っているだけです。<br />
高度経済性成長を体現すべく、オリンピックに併せて、東海道新幹線、首都高速道路など、インフラも整備されていった時期でもあります。</p>
<p>いみじくも2020年、東京でオリンピックが開催されます。</p>
<p>あの頃とは、時代も日本の状況も、世界情勢も全く変わっていますので、「東京オリンピック2020」の在り様も当然変わって来るはずですね。<br />
経済優先の、50年前。</p>
<p>政治とスポーツは別といえども、どこかで暗い影を落としているのも確かな真実であり、不確かな今の世界の中で、オリンピックが果たす役割、ひいては極東日本が果たすべく役割は大いにあるような気がします。</p>
<p>唯一の戦争被爆国として、祈り平和を希求し宣言し続けることは、様々な紛争、混乱が止まらない世界への警告として、日本が果たすべき役割は決して小さくはない、と考えます。</p>
<p>様々な困難を克服すべく、「東京オリンピック2020」が世界平和の一助になることを願ってやまない、50年前のオリンピックを思いつつ、6年後のオリンピックに思いを馳せます。

日本国中が、高度経済成長期の中、
1965年以降の経済台頭期は、「巨人・大鵬・卵焼き」はまさしく昭和元禄時代の代名詞。
また3Cと呼ばれる、新・三種の神器(カラーテレビ、クーラー、自動車)が喧伝されたのも、この頃です。
ちなみに、三種の神器とは、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫です。

一方、その時代は公害、安保闘争、過激派闘争・・・・
「浅間山山荘事件」が起こったのも、1972年でした。
経済優先から垣間見える、「ひずみ」がそのようなカタチで噴出していたのかもしれません。
その後、
巨人の9連覇が途絶えた後の、セリーグの混戦がまた新しい時代の幕開けを暗示していたのかもしれません。

1980年代
マイホーム、自家用車の普及、終身雇用による信用増大、それまでは上流階級しか持ち得なかった商品が多くの家庭に普及した時代です。
物質的な豊かさを享受できた、一億総中流時代と呼ばれた時代。
いわゆる「大衆の時代」です。

そんな1980年代、私はまさしく青春時代を過ごすことになります。
中学・高校・大学と・・・・・世の中も安定していた時代です。

小・中学時代は典型的な「野球少年」でした。まだ今ほど、サッカー人気が盛り上がっていない頃でしたので、「プロ野球選手」が少年たちの夢の一番の頃です。

そして、人生初めての試練が、高校受験です。それまでは、甘えが許されたけれども、受験は「結果」が明確に示されます。
「合格」「不合格」・・・・・ある意味初めての人生の岐路というべき、タイミングかもしれません。ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: ルーツ竏窒R<br />
縲恆蜿Oの時代縲彌r</p>
<p>日本国中が、高度経済成長期の中、<br />
1965年以降の経済台頭期は、「巨人・大鵬・卵焼き」はまさしく昭和元禄時代の代名詞。<br />
また3Cと呼ばれる、新・三種の神器(カラーテレビ、クーラー、自動車)が喧伝されたのも、この頃です。<br />
ちなみに、三種の神器とは、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫です。</p>
<p>一方、その時代は公害、安保闘争、過激派闘争・・・・<br />
「浅間山山荘事件」が起こったのも、1972年でした。<br />
経済優先から垣間見える、「ひずみ」がそのようなカタチで噴出していたのかもしれません。<br />
その後、<br />
巨人の9連覇が途絶えた後の、セリーグの混戦がまた新しい時代の幕開けを暗示していたのかもしれません。</p>
<p>1980年代<br />
マイホーム、自家用車の普及、終身雇用による信用増大、それまでは上流階級しか持ち得なかった商品が多くの家庭に普及した時代です。<br />
物質的な豊かさを享受できた、一億総中流時代と呼ばれた時代。<br />
いわゆる「大衆の時代」です。</p>
<p>そんな1980年代、私はまさしく青春時代を過ごすことになります。<br />
中学・高校・大学と・・・・・世の中も安定していた時代です。</p>
<p>小・中学時代は典型的な「野球少年」でした。まだ今ほど、サッカー人気が盛り上がっていない頃でしたので、「プロ野球選手」が少年たちの夢の一番の頃です。</p>
<p>そして、人生初めての試練が、高校受験です。それまでは、甘えが許されたけれども、受験は「結果」が明確に示されます。<br />
「合格」「不合格」・・・・・ある意味初めての人生の岐路というべき、タイミングかもしれません。

中学を卒業して、単身「大工」見習い。
住み込みでの、飯炊きから掃除洗濯等、
所謂、丁稚奉公ですね。
早く、そんな暮らしから脱却したくて、夜中こっそり腕を磨いたそうです。

私の物心ついた頃は、よく家で父が墨壷から、墨で、ベニヤ板に図面を引いていました。これを図板と言うそうです。
「最近は、家を建てられへん大工が増えた」と嘆いていました。

確かに父は、図面を自分で書き、材料も自分で発注して、一軒家を建てていました。よく仕事場に連れて行ってもらったものです。
足の裏に1寸釘を刺して大泣きしたことを思い出します。

なので、大鋸屑の匂いは、私にとっては父の匂いなんですね。

父はよく、「もうあんな分からず屋とは一緒に仕事はせん」と施主なのか、施工主なのか、まぁ、よく喧嘩をして帰ってきたものです。
その後は、当分仕事に行かずに家にいて遊んでくれました。

そんな父の父、私の祖父は「漁師」でした。
そして、曾祖父(そうそふ)は「宮大工」だったそうです。

宮大工縲恚剋t縲恆蜊H縲怩サして私・・・・・・

また、母の父、母方の祖父は満州で手広く事業をやってたそうですが、戦争ですべて奪われてしまったそうです。母も残留孤児になりかけたところを、中国人に囲われて、無地に日本に帰ってきたそうです。祖父も亡くなっているので、真相は詳しくわかりません。

私が、今の仕事を選んだ理由が、そんな流れの中にヒントがあるような気がします。

サラリーマンが一人もいない。。。。
案外、皆、一匹狼なんですね。わがままなだけなのか、自由闊達なところが好きなのか・・・・・
自分のその先のルーツはどこにあるのか、いつかゆっくり調べてみたいものです。

父は今も健在ですが、もう少し、「父の若かりし頃」を聞いてみたいものです。

大鋸屑の匂いは、私を少年時代にタイムスリップさせてくれます。ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

株式会社ニューズさんの写真
株式会社ニューズさんの写真
物心ついた頃は、大阪市の東北に位置する東淀川区北江口の市営住宅で暮らしていました。
淀川、神崎川、安威川等、川に囲まれた、まだまだ開発されていない町でした。

今は、立派な住宅地として、奇麗な高層住宅が沢山ありますが、
当時は、平屋ばかりで道は砂道、草木が生え放題の草むら、あちこちに沼地や田んぼがあって、アメンボ、ゲンゴロウ、ザリガニ等、そしてモグラなんかもいました。それだけでも、自然溢れる地域でした。

そんな町で、私は幼年期・少年期を過ごしました。
まさしく、「3丁目の夕日」の世界です・・・・

初めて、世間を意識したのは、「日本万国博覧会」です。
1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会です。

私の、狭い家に、知らない大人たちがこぞって泊まりに来たのです。親戚はもちろん、親戚の知り合いまで・・・・・
当時、泊まるホテルが無いくらい、日本中から、世界中から大阪に人が集まっていたのでしょう。

その度に、私はアメリカ館の「月の石」を見に、何時間も並んだ気がします。
業界的には、この万博がイベントの原点という人もいます。

昭和30年代、社会自体が、経済台頭期、建設ラッシュで浮かれているこの時代、九州は大分出身の私の父は中学を卒業して、「大工」として修行をしてたそうです。
当然、私が生まれる前の話ですから、父から聞いた話になりますが。

昭和14年生まれの父は、九州・大分県佐賀関一尺屋という、目の前が海の拡がる家で生まれ育ちました。兄弟は10人ほどいてたようですが、戦争や病気で亡くなったそうです。
その頃は男3人、女1人の4人兄弟姉でした。
ほとんどの男衆は「漁師」になったそうですが、「船酔い」が嫌な父は単身・大工の職人になるべく、上阪したそうです。

父の生き様を少し顧みると、そこに今の私のルーツの一端が有るように、思えます。

株式会社ニューズさんの写真
株式会社ニューズさんの写真
引き続き、「陰陽五行説」
10年を一区切りにして、50年。
憲法発布の年から、
10年ごとに「時代」が変わる。
混乱・変革の時代、教育の時代、経済台頭の時代、
大衆の時代、そして権力集中の時代・・・・・・

今、日本は2週目の教育の時代。

私が生まれたのも、1963年今から51年前。教育の時代です。
確かに、皆が高校だけでなく、大学に行く時代。
なので、様々な塾がありました。書道、珠算、学習塾・・・・
また百科事典が一家に1セット置かれた時代。

東京オリンピックが開催されたのが、1964年。
日本万国博の開催が1970年。
新幹線が走り、高速道路が整備され、町なかの道路も砂道からアスファルトに変わっていく時代。
まさしく、高度経済成長期です。

そんな時代に幼少期・少年期を過ごした私は、まさしく「3丁目の夕陽の頃」のわんぱく少年でした。

まだまだ、家の近所には沼地が沢山ありました。ザリガニ釣りや、カメを捕まえたり、ひよこを飼って、気づいたらニワトリになって、困ったこともありました。空き地で焚き火をしながら、焼き芋したり・・・
日が暮れる頃には、近所の夕餉の匂いが当たり前のように・・・
昭和のイイ時代だったのかもしれません。

一方、光化学スモッグ注意報が出たり、公害が社会問題になってました。過激派による、爆破事件など、暗澹たる戦後の暗部をがあぶり出ていた時代でもあります。

そして、今、思い返すと、自分の原点がいくつか、そこにあります。
ひとつは、やはり「父親」です。
そして、高校時代の器械体操部の3年間
大学時代の何でも屋・・・・・・・

この3つを思い起こすとき、今の自分の原点になった気がします。
次回は、そこを少し述べてみたいと思います。

写真: 陰陽五行説から、自分の50年を振り返る。</p>
<p>縲恟コ和の夕陽が懐かしい縲彌r</p>
<p>昨日に引き続き、「陰陽五行説」<br />
10年を一区切りにして、50年。<br />
憲法発布の年から、<br />
10年ごとに「時代」が変わる。<br />
混乱・変革の時代、教育の時代、経済台頭の時代、<br />
大衆の時代、そして権力集中の時代・・・・・・</p>
<p>今、日本は2週目の教育の時代。</p>
<p>私が生まれたのも、1963年今から51年前。教育の時代です。<br />
確かに、皆が高校だけでなく、大学に行く時代。<br />
なので、様々な塾がありました。書道、珠算、学習塾・・・・<br />
また百科事典が一家に1セット置かれた時代。</p>
<p>東京オリンピックが開催されたのが、1964年。<br />
日本万国博の開催が1970年。<br />
新幹線が走り、高速道路が整備され、町なかの道路も砂道からアスファルトに変わっていく時代。<br />
まさしく、高度経済成長期です。</p>
<p>そんな時代に幼少期・少年期を過ごした私は、まさしく「3丁目の夕陽の頃」のわんぱく少年でした。</p>
<p>まだまだ、家の近所には沼地が沢山ありました。ザリガニ釣りや、カメを捕まえたり、ひよこを飼って、気づいたらニワトリになって、困ったこともありました。空き地で焚き火をしながら、焼き芋したり・・・<br />
日が暮れる頃には、近所の夕餉の匂いが当たり前のように・・・<br />
昭和のイイ時代だったのかもしれません。</p>
<p>一方、光化学スモッグ注意報が出たり、公害が社会問題になってました。過激派による、爆破事件など、暗澹たる戦後の暗部をがあぶり出ていた時代でもあります。</p>
<p>そして、今、思い返すと、自分の原点がいくつか、そこにあります。<br />
ひとつは、やはり「父親」です。<br />
そして、高校時代の器械体操部の3年間<br />
大学時代の何でも屋・・・・・・・</p>
<p>この3つを思い起こすとき、今の自分の原点になった気がします。<br />
次回は、そこを少し述べてみたいと思います。

東京から、内海塾長がボランティアでやって頂いている、月一回のマーケティングの勉強会です。
2005年からですので、10年通ってることになります。
どんな本にも書かれていない、様々なマーケティング法則を教えて頂いています。

また、マーケティング以外にも、ビジネスモデルにおける考え方、組織論、経営論など、その講話の題材は多岐に渡っています。

その中でも毎年1回必ずお話されるのが「陰陽五行説」です。
何千年も前から、伝えられている50年周期の説です。

それに、自分の50年の人生ヒストリーを重ね合わせると、ちょっと面白いですね。

現在は、教育の時代、後3年もすれば、経済台頭期・・・
抗うことのできない、見えない時代の流れに、それとなく自分の生き様を重ねてみると、これからの行くべき道がおぼろげながら、見えてきます。

私も人生、2週目に入ってきました。あらためて、為すべきことを
今、模索しております。ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: 大阪内海塾<br />
縲怩T0年周期の陰陽五行説縲彌r</p>
<p>東京から、内海塾長がボランティアでやって頂いている、月一回のマーケティングの勉強会です。<br />
2005年からですので、10年通ってることになります。<br />
どんな本にも書かれていない、様々なマーケティング法則を教えて頂いています。</p>
<p>また、マーケティング以外にも、ビジネスモデルにおける考え方、組織論、経営論など、その講話の題材は多岐に渡っています。</p>
<p>その中でも毎年1回必ずお話されるのが「陰陽五行説」です。<br />
何千年も前から、伝えられている50年周期の説です。</p>
<p>それに、自分の50年の人生ヒストリーを重ね合わせると、ちょっと面白いですね。</p>
<p>現在は、教育の時代、後3年もすれば、経済台頭期・・・<br />
抗うことのできない、見えない時代の流れに、それとなく自分の生き様を重ねてみると、これからの行くべき道がおぼろげながら、見えてきます。</p>
<p>私も人生、2週目に入ってきました。あらためて、為すべきことを<br />
今、模索しております。

ゴールデンウィークもアッと言う間に過ぎ去り、沖縄地方では早くも梅雨入りと言われています。

本当に月日の過ぎるのは早いものです。

GW中は日頃できない、事務所の大掃除もできたし、企画書を一本書き上げるのにも、集中できたのでそれはそれで良かったです。

また、全国公開が決まっていない映画「ふうけもん」の特別試写会を見に行きました。
FB広告で見かけたんですが、「元祖便利屋・・・」というものに惹かれたんですが、主演も中村雅俊さん。。。。。
まさしく、「俺たちの旅」を想起させる、我が青春ドラマです。(笑)
映画の内容はさておき、「便利屋」という言葉に、なぜ惹かれるか・・・・・
まさしく、今の私があるのも、その便利屋が原点であるから、です。

大学時代に友人とまさしく「何でもお手伝いセンター」なる便利屋をしていたからです。
携帯電話はもちろんメールなど全くない時代、1983年頃です。

・チラシのポスティング
・引越手伝い
・換気扇洗い
・害虫駆除
・工場での缶詰
・化粧品のデモ販売
・他人の披露宴のアトラクション
・縁日の手伝い
・ラジオ番組のエキストラ
・テレビ番組の公開放送のエキストラ集め
・スポーツイベントの誘導スタッフ
・船上イベントのスタッフ
・パーティ企画の仮装
・巨大七夕の買い付け
・吉本新喜劇の大道具の運搬  等等

あげれば切りのない職種をこなしました。

今の私のイベント企画制作、セールスプロモーション企画制作会社に至る原点があの頃の「何でも屋」です。

その頃は「何でもできること」が、楽しかった気がします。
しかし、本当は何でもできることは、何もできないことだと、気づきます。

甘くも苦い思い出です。
1985年、何もできないことを知らしめる事件が、私のその後の人生を変えたと言っても過言ではありません。

ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ
写真: 元祖便利屋</p>
<p>ゴールデンウィークもアッと言う間に過ぎ去り、沖縄地方では早くも梅雨入りと言われています。</p>
<p>本当に月日の過ぎるのは早いものです。</p>
<p>GW中は日頃できない、事務所の大掃除もできたし、企画書を一本書き上げるのにも、集中できたのでそれはそれで良かったです。</p>
<p>また、全国公開が決まっていない映画「ふうけもん」の特別試写会を見に行きました。<br />
FB広告で見かけたんですが、「元祖便利屋・・・」というものに惹かれたんですが、主演も中村雅俊さん。。。。。<br />
まさしく、「俺たちの旅」を想起させる、我が青春ドラマです。(笑)<br />
映画の内容はさておき、「便利屋」という言葉に、なぜ惹かれるか・・・・・<br />
まさしく、今の私があるのも、その便利屋が原点であるから、です。</p>
<p>大学時代に友人とまさしく「何でもお手伝いセンター」なる便利屋をしていたからです。<br />
携帯電話はもちろんメールなど全くない時代、1983年頃です。</p>
<p>・チラシのポスティング<br />
・引越手伝い<br />
・換気扇洗い<br />
・害虫駆除<br />
・工場での缶詰<br />
・化粧品のデモ販売<br />
・他人の披露宴のアトラクション<br />
・縁日の手伝い<br />
・ラジオ番組のエキストラ<br />
・テレビ番組の公開放送のエキストラ集め<br />
・スポーツイベントの誘導スタッフ<br />
・船上イベントのスタッフ<br />
・パーティ企画の仮装<br />
・巨大七夕の買い付け<br />
・吉本新喜劇の大道具の運搬  等等</p>
<p>あげれば切りのない職種をこなしました。</p>
<p>今の私のイベント企画制作、セールスプロモーション企画制作会社に至る原点があの頃の「何でも屋」です。</p>
<p>その頃は「何でもできること」が、楽しかった気がします。<br />
しかし、本当は何でもできることは、何もできないことだと、気づきます。</p>
<p>甘くも苦い思い出です。<br />
1985年、何もできないことを知らしめる事件が、私のその後の人生を変えたと言っても過言ではありません。

3.11は絶対忘れる事の出来ない1日です。3年前に、事務所で見たテレビから流れる光景・・・・・・・
未だ、なんの復興も出来ていない、気がします。

今日もテレビでは特集を組んでますが、なんか、マスコミってこんな時だけ大騒ぎしていますね。
穿った見方をすると、視聴率欲しさの為に「話題」になるような奇跡とか、絆とか・・・・・日頃からの継続的な支援が必要なのに、マスコミは瞬間瞬間の数字の為に、ドラマを作り上げている・・・・
斜め目線ですいません。

昨年、37年ぶりに、小学校、中学校時代に住んでいた、「井高野・北江口」に行ってきました。
私のふるさとというべき、場所です。

その頃とは、全く違う景色になっていました。
沼地でザリガニやゲンゴロウをとって遊んでた頃。
草ぼうぼうの野原では、基地と称するものを作って遊んでた場所。今は、すべて住宅地になり、その面影もありません。

ただひとつ変わらない風景がありました。

私の住んでいた家の前から万福寺というお寺に続く「一本道」は未だ健在でした。周りの景色は変わっても、その一本道は昔のまま、のびていました。

春には、花々が咲き乱れていた野原が、暑い夏には蝉時雨が降り注いでいた。秋も冬も、その一本道は変わらないまま、私の幼き季節を見ていてくれた、と。

私の戻るべき場所が、ここにありました。
それが「ふるさと」なんだと思います。
単なる場所ではなく、そこで過ごした時間が蘇るところが
「ふるさと」

一刻も早く、被災された方々が、「戻るべき場所」に戻れるように、今も願うのみです。

誰にも必ず「一本道」はあるはず・・・・・・・ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: 戻るべき場所</p>
<p>3.11は絶対忘れる事の出来ない1日です。3年前に、事務所で見たテレビから流れる光景・・・・・・・<br />
未だ、なんの復興も出来ていない、気がします。</p>
<p>今日もテレビでは特集を組んでますが、なんか、マスコミってこんな時だけ大騒ぎしていますね。<br />
穿った見方をすると、視聴率欲しさの為に「話題」になるような奇跡とか、絆とか・・・・・日頃からの継続的な支援が必要なので、マスコミは瞬間瞬間の数字の為に、ドラマを作り上げている・・・・<br />
斜め目線ですいません。</p>
<p>昨年、37年ぶりに、小学校、中学校時代に住んでいた、「井高野・北江口」に行ってきました。<br />
私のふるさとというべき、場所です。</p>
<p>その頃とは、全く違う景色になっていました。<br />
沼地でザリガニやゲンゴロウをとって遊んでた頃。<br />
草ぼうぼうの野原では、基地と称するものを作って遊んでた場所。今は、すべて住宅地になり、その面影もありません。</p>
<p>ただひとつ変わらない風景がありました。</p>
<p>私の住んでいた家の前から万福寺というお寺に続く「一本道」は未だ健在でした。周りの景色は変わっても、その一本道は昔のまま、のびていました。</p>
<p>春には、花々が咲き乱れていた野原が、暑い夏には蝉時雨が降り注いでいた。秋も冬も、その一本道は変わらないまま、私の幼き季節を見ていてくれた、と。</p>
<p>私の戻るべき場所が、ここにありました。<br />
それが「ふるさと」なんだと思います。<br />
単なる場所ではなく、そこで過ごした時間が蘇るところが<br />
「ふるさと」</p>
<p>一刻も早く、被災された方々が、「戻るべき場所」に戻れるように、今も願うのみです。</p>
<p>誰にも必ず「一本道」はあるはず・・・・・・・

初めて、このイベント業界、広告業界と出会ったのは、今から30年前の頃、世はバブル絶頂期でした。

この業界のみならず、日本中が沸いていた気がします。
まさしく、沸いていた・・・・・・

その頃に、学生企業をやっていた私は「この業界」から仕事を受注して、作業をしていました。
学生企業のノウハウはたかが知れてます。20人、30人の学生を集めて、派遣していた感じの仕事です。

ただ、「業界の仕事」に憧れていた若者ですから、すべてが新鮮な想いで仕事をしていたのを覚えています。

また、この業界独特のルールというか、隠語みたいなことも流行りました。

「ちゃー、しばこーかー」
「けつかっちん」
「るーびー、いこかー」
「そのコロガシ、わらってー」
「ツェー万、貸して・・」

などなど・・・・・・

業界人ぽく、わざとこんな言葉を使ってた気がします。

で、

未だにわからないのは

「おはようございます」

朝の挨拶ではありません。

テレビ局などで、人と会うと必ず「おはようございます」
昼でも、
夕でも、
夜でも、
深夜でも、
真夜中でも、
「おはようございます」

知らない相手にもすれ違いざま、
「おはようございます」

どんなときも
「おはようございます」

究極のコミュニケーションワードです。ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: ザ・業界</p>
<p>初めて、このイベント業界、広告業界と出会ったのは、今から30年前の頃、世はバブル絶頂期でした。</p>
<p>この業界のみならず、日本中が沸いていた気がします。<br />
まさしく、沸いていた・・・・・・</p>
<p>その頃に、学生企業をやっていた私は「この業界」から仕事を受注して、作業をしていました。<br />
学生企業のノウハウはたかが知れてます。20人、30人の学生を集めて、派遣していた感じの仕事です。</p>
<p>ただ、「業界の仕事」に憧れていた若者ですから、すべてが新鮮な想いで仕事をしていたのを覚えています。</p>
<p>また、この業界独特のルールというか、隠語みたいなことも流行りました。</p>
<p>「ちゃー、しばこーかー」<br />
「けつかっちん」<br />
「るーびー、いこかー」<br />
「そのコロガシ、わらってー」<br />
「ツェー万、貸して・・」</p>
<p>などなど・・・・・・</p>
<p>業界人ぽく、わざとこんな言葉を使ってた気がします。</p>
<p>で、</p>
<p>未だにわからないのは</p>
<p>「おはようございます」</p>
<p>朝の挨拶ではありません。</p>
<p>テレビ局などで、人と会うと必ず「おはようございます」<br />
昼でも、<br />
夕でも、<br />
夜でも、<br />
深夜でも、<br />
真夜中でも、<br />
「おはようございます」</p>
<p>知らない相手にもすれ違いざま、<br />
「おはようございます」</p>
<p>どんなときも<br />
「おはようございます」</p>
<p>究極のコミュニケーションワードです。

ソチオリンピックは、41歳の葛西選手の銀メダルで盛り上がってますね。

先日は、24年ぶりのフルマラソンに参加しました。42.195kmは簡単な距離ではないので、当選してからは、ちょっと気合いを入れながらの練習となりました。

思えば3年半前に、大阪城周回を走り始めたのがキッカケですが、その時はマラソンの為にではなく、
健康管理とダイエットの軽い気持ちで走り始めました。

また、走っていると、頭の色んなことが整理整頓できる、まさしく「走行禅」・・・・・・

そんな中、大阪マラソン、神戸マラソン、京都マラソンと抽選では、大阪3年連続、神戸2年連続落選・・・・
余計に意地になって、申し込んでた気がします。

そして、初めて申し込んだ京都マラソンが当選。
3都市で、一番キツいコースです。

年齢的には、維持することが精一杯でしたが、何とか、当日を迎えることができました。
ここ数日は、カラダの変調を意識し過ぎました。
鼻水がとまらなかったり、ふくらはぎが痛くなったり・・・・
プレッシャーだったのかもしれません。

実際は足が痛くなりながら、京都の風景を見ながら、走れることを楽しむことができました。

来年も是非、42.195kmを楽しみたいと思います。

写真: 京都マラソン</p>
<p>ソチオリンピックは、41歳の葛西選手の銀メダルで盛り上がってますね。</p>
<p>昨日は、24年ぶりのフルマラソンに参加しました。42.195kmは簡単な距離ではないので、当選してからは、ちょっと気合いを入れながらの練習となりました。</p>
<p>思えば3年半前に、大阪城周回を走り始めたのがキッカケですが、その時はマラソンの為にではなく、<br />
健康管理とダイエットの軽い気持ちで走り始めました。</p>
<p>また、走っていると、頭の色んなことが整理整頓できる、まさしく「走行禅」・・・・・・</p>
<p>そんな中、大阪マラソン、神戸マラソン、京都マラソンと抽選では、大阪3年連続、神戸2年連続落選・・・・<br />
余計に意地になって、申し込んでた気がします。</p>
<p>そして、初めて申し込んだ京都マラソンが当選。<br />
3都市で、一番キツいコースです。</p>
<p>年齢的には、維持することが精一杯でしたが、何とか、当日を迎えることができました。<br />
ここ数日は、カラダの変調を意識し過ぎました。<br />
鼻水がとまらなかったり、ふくらはぎが痛くなったり・・・・<br />
プレッシャーだったのかもしれません。</p>
<p>実際は足が痛くなりながら、京都の風景を見ながら、走れることを楽しむことができました。</p>
<p>来年も是非、42.195kmを楽しみたいと思います。

1995年は、阪神大震災、そしてオウムサリン事件など、混乱の時代の始まりを予想するかの年だった気がします。

まさしく、失われた10年いや20年の始まりと言えましょう。

そんな時代に産声をあげた会社ですが、少しずつ、順調に大きくなっていきました。
この業界は、特に制作会社は営業というものをしない、どちらかというと、人の紹介の連続で実績をつんでいく・・・・極めてアナログな世界です。

商品はヒトそのものです、実績や経験、そして気配り、段取りの良さ、当然知識、知恵も必要です。
ただ、それは見えないものなので、時間がかかります。
またチャンスが無いと、発揮することすらできません。

そう考えると、「チャンス」の連続で、今がある気がします。
「運」と言ってもいいかもしれません。

常に新しい出会いがあり、その中から、仕事が生まれ、また出会いが連鎖していく。

そして、必ず、守ってきたことは、「筋を通す」ということです。
狭い業界ですから、この「筋」はとても大切なことです。
仕事ですから、値段交渉、などは駆け引きとして必要ですが、
人間としてのブレない「筋を通す」ことは、とても重要なファクターです。

20年目に入るにあたって、色々思い出されます、良い事も悪い事も、未だ、ヒトには言えない事ども・・・・・・・

いつか、それを語る日が来るかもしれません、会社を運営すること、人として、生きていく事、すべてが正しかったとは思わないですが、確実に言える事は、それらのすべての経験が、「今を形作っている」ということです。

今は、「未来」を創るために、存在すると考えます。

益々、前向きに、協力会社・クライアントの皆様のお役にたてるべく、今後も努力して参りたいと思います。

すべてのヒトに、すべての出来事に、感謝。

「冬来たりなば春遠からじ」ツꀀ窶鐀 場所:ツꀀ株式会社ニューズ

写真: 20年目の感謝ー終章</p>
<p>1995年は、阪神大震災、そしてオウムサリン事件など、混乱の時代の始まりを予想するかの年だった気がします。</p>
<p>まさしく、失われた10年いや20年の始まりと言えましょう。</p>
<p>そんな時代に産声をあげた会社ですが、少しずつ、順調に大きくなっていきました。<br />
この業界は、特に制作会社は営業というものをしない、どちらかというと、人の紹介の連続で実績をつんでいく・・・・極めてアナログな世界です。</p>
<p>商品はヒトそのものです、実績や経験、そして気配り、段取りの良さ、当然知識、知恵も必要です。<br />
ただ、それは見えないものなので、時間がかかります。<br />
またチャンスが無いと、発揮することすらできません。</p>
<p>そう考えると、「チャンス」の連続で、今がある気がします。<br />
「運」と言ってもいいかもしれません。</p>
<p>常に新しい出会いがあり、その中から、仕事が生まれ、また出会いが連鎖していく。</p>
<p>そして、必ず、守ってきたことは、「筋を通す」ということです。<br />
狭い業界ですから、この「筋」はとても大切なことです。<br />
仕事ですから、値段交渉、などは駆け引きとして必要ですが、<br />
人間としてのブレない「筋を通す」ことは、とても重要なファクターです。</p>
<p>20年目に入るにあたって、色々思い出されます、良い事も悪い事も、未だ、ヒトには言えない事ども・・・・・・・</p>
<p>いつか、それを語る日が来るかもしれません、会社を運営すること、人として、生きていく事、すべてが正しかったとは思わないですが、確実に言える事は、それらのすべての経験が、「今を形作っている」ということです。</p>
<p>今は、「未来」を創るために、存在すると考えます。</p>
<p>益々、前向きに、協力会社・クライアントの皆様のお役にたてるべく、今後も努力して参りたいと思います。</p>
<p>すべてのヒトに、すべての出来事に、感謝。</p>
<p>「冬来たりなば春遠からじ」