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先週末、高校のが開催された。
42年ぶりに150名近くの同級生と再会。
当時568名の生徒数を誇るマンモス校だったので、
3年間同じクラスになっていない同級生は、顔は見たことあるけど、
話をしたこともない人の方が多かった。
当然、42年ぶりにあっても、「あの人、誰?」となる。
しかし、それはそれで、同じ空間で、同じ時代を暮らした面々なので、懐かしさを感じるものだ。

少子高齢化で、我が息子・娘たちは2クラスくらいしか同級生がいない状態。それはそれで、しっかりお互い知り合っているものだろう。

時代によって、そこは変わってくるので、多いからいいのか、少ないからいいのか、議論が分かれるところだけれども、
縁があって、同じ高校で、同じ時代を過ごした事実は変わらないし、
こうして42年過ぎた時に、姿・形は変われども、一堂に会することができたことには感謝しかない。

そして、もう少し、皆、元気で健康で健やかに暮らせることを心から願うばかりだ。また再会できる日を楽しみにしながら・・・

 

 

1年以上準備してきたイベントの本番が終わった。

演出家の師匠と、二人三脚で仕上げた舞台。

 

300名を越す出演者との調整・個別練習と合同練習。

音楽監督との打合せ、そして曲の収録、録音、

映像クリエーターとの映像製作の打合せ。

それぞれのセクションのプロフェッショナルたちと創り上げた舞台。

役割はそれぞれだけれども、一枚岩になれた気がする

 

長期間の準備中に沸々と湧き出る確執を乗り越えて、最後は同じ方向で舞台づくり。

演出家の想い、音楽パート、映像パート、そして舞台監督としてのミッション。

 

変なストレスがない中、舞台づくりに集中できた現場。

 

4大行幸啓の一つ・国民文化祭、やはりロイヤルがご臨席すると、空気感が変わる。

なんだろう、表現足らずだけれど、「優しさに包まれる」とでも言うのだろうか、、、

本当に、「穏やかな気持ちにさせられる」イベントだ。

 

この仕事に携われた、喜び、感謝、誇り、言葉では表現できないほどの想いが

心の奥底から溢れ出す。

もう何度も、ブログに書いているが、「奇跡の同窓会」再び・・・
1990年大阪鶴見緑地を舞台に、「国際花と緑の博覧会」が開催された。
国際博覧会協会(BIE)が、園芸博という特定の部門にテーマを限定した認定博。
2025年に開催予定の大阪関西万博は、登録博で、過去は、1970年の日本万国博覧会と、1975年の沖縄国際海洋博覧会が該当する。

話は、戻って、1990年の花博当時、私は26歳の若手だった。
そして、民間パビリオンのスタッフとして参加。
りそな銀行を中心に(当時は大和銀行)関西で生まれた企業40社が集まって出展した「大輪会水のファンタジアム」パビリオンの催事ディレクターとして勤務。
4月から9月まで、183日間の会期中、実に様々なイベントを企画、実施した。
屋外で、パビリオンに入場するまでの待ち客対策だ。
いかに、「待っていることを忘れてもらうか」が最大のミッションだった。
ミニコンサートあり、トークショーあり、パフォーマンスあり、またドリンクサービスあり、またペガサスをモチーフしたキャラクターマスコットのてんまくんは、お客さんの癒しとして、人気者に。
パビリオンも、出展企業としては、1〜2位を争うぐらいの人気に。知名度が上がれば上がるほど、待ち客対策が重要になったものだ。
暑さや、雨、風邪などの自然との闘いのほか、マスコミが結構殺到してきたので、そこの対応も大変だった。

マスコミ対応で、一番記憶に残っていることが、
会期も真っ只中の8月1日。その年も異常な夏の暑さだった記憶がある。
明確に日にちを覚えているのは、その日が「水の日」だったから。「大輪会パビリオン」のコンセプトは、『生命の根源・水』だったので、この日はとりわけ、いろんなイベントを実施した。
特に、お客様の前で2メートル以上ある氷の塊をおので削ってキャラクターてんまくんを作る氷像パフォーマンスは、清涼感を伴い、お客様の目を楽しませた。
そして、夕方近くに事件が起きた。
マスコミのテレビクルーが「てんまくんの着ぐるみを脱ぐところを撮影させて欲しい」と言っている、と広報担当。
しかし、着ぐるみをお客様の前で脱ぐことは御法度だ。
着ぐるみは、人が入っているのではなく、夢や憧れが入っているのだ。
汗をかいた、暑いと言っているバックヤードを見せることはできない。
その後、
マスコミと一悶着があったが、お互いの言い分を伝え合って、なんとか乗り切った気がする。

あれから33年・・・
いまだに、当時の館員、スタッフ、コンパニオンが集まり同窓会を開催している。ここ最近は、コロナ禍で延期になっていたが、基本2年に1回開催という、継続開催。
イベントは一期一会で、これほど続く同窓会を私は知らない。

以来、「奇跡の同窓会」と呼んでいる。

残念ながら、お亡くなりになられた方もいらっしゃいます。ご冥福をお祈りします。

そして、この同窓会開催に尽力しているコンパニオンの皆さんに感謝です。

今年も、また来月に開催される。

残念ながら、私は別件本番で欠席となるが、あの頃の笑顔を思いつつ盛会を祈りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弊社から15分もいけば大阪城公園に着く。

運動不足解消のため、僕は、時折散歩に出か

ける。新型コロナウイルス禍のここ3年間は、

インバウンドも途絶え、本当に、閑古鳥が鳴

く状態だったが、やっと最近は人出も戻って

きた。そして、何よりも嬉しいのは、そこで、

遠足や修学旅行の小学生の笑顔が見れること。

学校行事で思い出すのは、僕が小学6年生

(1975年)の修学旅行。その頃は大阪か

ら鳥羽・伊勢方面、2泊3日が定番だった。

当時は生徒も多くて、8クラス約400名の大

所帯、バスは1台に約50名、電車は全車両貸

切で、修学旅行専用列車だった。

何より楽しみだったのが、「行く前の準備」

決められた値段の中で、どんなおやつをチョ

イスするかや、グループ分けで気になってい

た女の子と一緒になれるかどうかなど、それ

だけで、ワクワクしていたことを思い出す。

そして、とりわけクラスで盛りあがったの

が、バスの中で一緒に歌うための「歌集」づ

くり。童謡唱歌だけではなく、当時の流行歌

を選んで、わら半紙に印刷して、みんなで一

緒に歌うために作った。歌はデータなどでは

なく、カセットテープで再生して流していた

ので、歌1曲流すだけでも、ちゃんと用意が

必要だったし、準備が大切だった。クラス独

自の歌集を作るのに、どんな曲を入れるか、

みんなで話し合いをしながら決めた。

「なごり雪」「22歳の別れ」「岬めぐり」

「翼をください」「学生街の喫茶店」「『い

ちご白書』をもう一度」など、今も歌い継が

れている名曲ばかり。

そんな中、担任のS先生が「入れて欲しい曲

があるんだけど・・・」と言って選んだ曲が、

チューリップの「心の旅」。当時この曲を知

っている生徒の方が少なかった気がするが、

先生のたってのお願いなので、賛成多数で歌

集に入れた。S先生が、バスの中で自ら歌っ

て聴かせてくれた。いい曲だったが、小学6

年生の僕たちにその意味がわかったかどうか

は覚えていない。もちろん、その他の流行っ

ていた曲の歌詞も同様に理解できていなかっ

ただろう。それでも、素敵な曲は心に響くも

ので、みんなで歌ったのを覚えている。

 

今でも「歌集」に入っていたメロディーを

聞くたびに、修学旅行でのバスの中の光景や、

当時気になっていた女の子の仕草を思いだす。

そして「心の旅」を聞くとS先生を思いだす。

その時の先生の年齢は定かではないけれども、

20代半ばくらいだったように思う。そう考

えると、S先生にとって「心の旅」はどんな

心情で歌っていたのだろうと、想像してみる。

流れゆく月日とともに、思い出は薄れてい

くけれども、メロディーが流れると、心の奥

底に眠っている光景が映像となって動きだす。

歌と共に思い出は生きていることを実感する

のだ。

 

大阪城公園の小学生の笑顔を見ながら、今

の子供達に遠足や修学旅行の「歌集」ってあ

るんだろうか、と考えてみる。彼らの3年間

は、大人のそれとはまた違う歳月だったので

はないか、思い出をたくさん作る日々にマス

クで過ごさざるを得ない、友達の素顔も見る

ことができない、一緒に歌を唄うこともでき

ないことなどを考えると、やはり少し複雑な

気持ちになる。

〈今から、楽しい思い出をいっぱい作れよ!〉

心の中でエールを送る。

スマホで持ち運びできる時代に、友達と一

緒に聞く歌の存在はどうなんだろう。便利な

時代ではあるけれども、個々の思い出よりも

友人と一緒に歌った曲を思い出として残して

欲しい。

インド・ネパール17日間。僕が社会人になる前の大学の卒業旅行。

今もなぜ、「インド」だったのか、作家、藤原新也さんの「印度放浪」という本を読んだせいだったのか、それだけではなかった気がする。働き出すと自由な時間がなくなるので、その前に「気軽な旅をしてみよう」そんな思いだった。もう36年前になる、1987年。
コルカタ(旧カルカッタ)というインド北東部の都市へ入って、17日目にニューデリーから出国。決まっているのはそれだけ、宿泊先も、行先も全く自由な、自分自身で決める旅。初めての海外で、ひとり旅。頼りは『地球の歩き方』という一冊の本のみ。今考えると、こんな無謀な旅は若さゆえにできたのだろう。今では、こんなことは考えもつかないし、思っても実際はできないだろう。  コルカタに到着したのは、3月初旬だったけれども、空気はモワッとし、暑い。えも言えぬ匂いが鼻につき、町中が喧騒に包まれている。道には牛が堂々と歩き、糞だらけ、ゴミも散乱している。物乞いの子供達が近寄ってくる。僕は、異国に来たことを強烈に感じ戸惑った。  まずは、最初の目的地へバスと列車を乗り継ぎながら向かう。現地ではインド人に色々助けてもらった、バスの停留所や駅のホームなど、行先を言うと連れてってくれる、お礼に、百円ライターをあげると、こちらがびっくりするくらい喜んでくれたのを思い出す。 困ったのは、やはり食事だ。渡航前から水には気をつけるように言われていたので、極力生水は避け、水分は果物で摂っていた。しかし果物を洗っていた水が残っていたのか、何度もお腹をくだした。抗生物質でなんとか回復はしたけれど。あと、案外役に立ったのが、蚊取り線香だ。蚊だけではなく、よくわからない虫が部屋の中に住んでいる。初めは驚いたが、次第にあたりまえになっていた。そんな時の蚊取り線香は無敵だった。
また、その日泊まる宿を探す。今はどうかわからないが、当時は安い日本人が集まるユースホステルもあったので、案外そこは苦労をした記憶はない。
ドタバタしながら、最初の目的地、バラナシへ。ヒンズー教徒の聖地と呼ばれる場所。ガンジス川の川辺にある、よく沐浴風景がパンフレットなどに載っている場所だ。右岸には、寺院や巡礼者の宿舎など、所狭しと建物が立っているが、向こう岸の左岸はだだっ広い土地が広がっているだけ、インドでは左は不浄と思われている。理由は様々なんだろうが、トイレは左手、食事は右手。
川の色も黄土色で決して清潔とは言い難いが、巡礼の人々は、川に入る。また、そこで暮らしている人々は、歯磨き、洗濯などの日常生活を営んでいる、まさに混沌としている風景が広がっていた。
川辺で、目に入った光景に僕は少し緊張し、固まっていた。煙がゆっくりと立ち昇っている。「火葬場」だ。じっと見ていると、目つきの鋭い、彫りの深いインド人が耳元で「ロング ルッキング プロブレム」と囁いていた。(ここは言うことを聞かないとヤバいな)そっと、視線を外し、英語が全くわからないフリをして、その場を離れた。その後、観光客用の小舟に乗る。川面を見ながら、「あぁ、僕は単なる観光客なんだ。決して、川には入れないし、そこで歯磨きもできない。」

彼らにとって、街の汚濁や喧騒などは実に些細なことなのだ。輪廻転生、「生まれ変わる人生」に祈りを捧げに来ている。火葬されガンジスに流されることで全ての罪が洗い流され、生まれ変われると信じているのだろう。
カオスの象徴のようなガンジスのそれは今なお、僕の心の奥底に刻印されている光景の一つである。

ご無沙汰してます。

更新せずに、1ヶ月以上経ってしまいました。

 

すっかり、春らしい季節になってます。

やっと花粉症も止まりつつありますが、まだ安心できません。

新型コロナも、ずいぶん落ち着いてきた感があります。

しかし、マスク着用の習慣からなかなか抜け出せないのも確かです。

まぁ、着用するもよし、しないのもよし、あまりどちらかに偏るのもどうかと思います。徐々に、コロナ前に戻れば良いなと思います。

 

しかし、1ヶ月の間に、10年させていただいている大学さんの入学式の本番があったり、勉強中のエッセイが活字になってエッセイ集に掲載されたり、中学時代の同窓会で、懐かしい面々と再会できたりと、あっという間に、時間が過ぎていきます。

 

年齢を重ねると、体のあちこちに支障が起こったり、気は若いつもりであっても、無理は禁物ですね。

自然の流れに抵抗はできませんが、「今できること」を、やはりやっておかないといけないと思うこの頃です。

 

「今、会える人と会う」「今、できることをチャレンジする」「今を大切にする」

最近、痛切に感じます。

 

皆さん、体調管理を怠らずに、またお会いしたいものです。

ツꀀ
2020年頃から、新型コロナウイルス感染症による、自粛生活が始まり、イベント業界も
相当な対応を迫られ、少しずつ緩和されてきたとはいえ、3年以上が過ぎた。
飲食含めて、普通の生活に戻りつつある中、イベント業界も意識はしつつも、元のイベント形態に
戻りつつある。
3年という月日が、失わせたものはあまりにも大きい。
しかしながら、時は戻らない。
「これから」を考えたいし、向かってほしい。
失ったことで気づき、これから得るものもあるはず、リスタートの季節と思って、新しい春を迎えたい。
春の足音が聞こえてきそうな、陽気な日々が嬉しく思う。
本日1月31日は弊社の1年の締日。
明日から、29期目に入ります。
毎年、1年の締めくくりにあたり、今期も無事に終えることができたことに感謝します。
弊社と業務を共にしていただいている、取引先様、協力会社様にはお礼しかありません。
3年以上にわたり、コロナ禍という異常な状態の中、イベント業界もその荒波に翻弄され、
今なおその波は収まったとは言えません。
しかしながら、今後、大阪・関西万博が控えています。
イベント業界も、徐々に上潮になっていくのではないでしょうか。
私も、20歳の頃からイベント業界にお世話になり、40年ほどこの業界と共に、生きてきました。
恩返しと共に、まだまだ若い人たちと切磋琢磨していきたいと思います。

2年後に迫ってきた『2025年日本国際博覧会(略称「大阪・関西万博」)』
1970年の大阪万博と比べられるが、時代背景も状況も違っている中で、そこを論じても答えはない。
また、東京オリパラでの不祥事が解決されていない中、疑念があることも確かである。

何が正解かどうかはわからないけれども、地方博含めて、大規模イベントが地方活性化の起爆剤の一つであることは間違いない。
ただ、あくまで起爆剤であり、「その後」が大事である。
花火と同様、打ち上げた美しさに見惚れていてもダメ。
その実績をどのように未来へ繋げていくかが重要である。

1970年の大阪万博のレガシーは間違いなく、「太陽の塔」であろう。
当時、大きな反響があったことは、のちにメディアなどで知ることになる。
50年以上経って、岡本太郎のメッセージの意味が伝わっているのではないだろうか。

テーマ「人類の進歩と調和」とは如何なるものか・・・
しかしながら、「万博」開催自体は、賛否あれどもその後の日本の繁栄を世界に知らしめたことは間違いない。

そして、2025年、再び行われる万博。
どんなレガシーを残すことができるのであろうか。

40年近く、イベント業界でお世話になっているからこそ、その意味を考えたいと思う。

 

2020年、6月新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、世界中がこの先どうなるのだろう、と不安しかなかった時期に、マーケティング勉強会「オンライン内海塾」がスタートしました。

内海塾自体は20年前から開催され、私の人生において欠かすことのできない勉強会です。

WEB会議が、一般化したこともあり、オンラインでの講義も普通になっていました。

 

実際は、マーケティング以外にも示唆に富んだ話題を常に提供いただき、

人生における指南書のような講義です。

迷ったり、戸惑ったりしつつも、王道を忘れることなく、戻るべき場所に連れて行ってくれます。

 

コロナ真只中の2020年から3年弱、オンライン内海塾は30回を数えました。

人と会えない、人が集まれない状況下で、このオンライン内海塾での講義は得難い体験となりました。

昨日、ひとまず第一期が終了しましたが、改めて内海塾長との出会いの不思議さと有り難さを思います。

 

「出会い」は決して偶然ではなく、必然なのだろう。

なぜなら、一つの「出会い」が自分の人生の転機となることが多分にあることは、今までの人生を振り返ってみて、心底感じ、信じられるからだ。

 

またの再会を楽しみに、もう少し自分自身を磨いてみよう。

 

<参考サイト>

内海新聞

https://www.facebook.com/utsuminewspaper

全国内海塾

https://www.facebook.com/utsumijuku

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2002年、日韓共催サッカーワールドカップから、早20年がたちました。
私も、神戸会場の担当ということで、IDカードをいただき、連日会場に足を運んでいました。日本戦は行われませんでしたが、各国のユニフォームで現れた沢山のサポーターを見て、どこから現れたんだみたいな感じで驚いた記憶があります。
世界的なスポーツ大会でもとりわけサッカーのそれは全世界中を熱狂の渦に巻き込んでいます。
「俺関係ないよ」という方もいますが・・・・それも当然ありです。

世界的なイベントは、今大きく揺らいでいます。東京オリンピックを巡る問題は、まだ先が見えません。
そして、2025年の大阪・関西万博にも大きな影を落としていることは確かでしょう。

スモールカンパニーの弊社はある程度決まったタイミングで役割分担の中での業務依頼となりますので、弊社の取引先に頑張ってもらうしかないというのが実情です。

イベント自体の推進にはやはり経験値は必要であり、コンセプト作りから、スケジュール管理、コスト管理、人的キャスティングの配置、などなど実に多岐に渡る作業がある限り1社で制作することは不可能です。なので、弊社のようなスモールカンパニーがそれぞれの得意業務を団結して、制作していく必要性があります。
それは、車や飛行機を製作していく過程で様々な会社が携わるのと一緒かもしれません。
ただし、そのチームのコントロールタワーとなるべきディレクターなり、プロデューサーが重要です。スポーツで言うところの監督という立場でしょうか・・・・
目的達成に向けて、どのように、各社をまとめ上げていくか、まさしくチームワークです。ワールドカップを見ながら、裏方であるイベント作りも実は似ているような気がします。

違うところで、イベント業界が注目されていますが、華やかなその裏側で汗をかいている人々がいることは理解していただきたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに聞いた藤原新也さんの名前に惹かれて、日曜美術館(NHK)という番組を見た。

「日曜美術館 死を想(おも)え、生を想(おも)え。 写真家・藤原新也の旅」

そうだ、この人の本を読んで印度に行きたくなって、行ったんだ。
23歳、大学の卒業旅行で選んだのが、インド。
初めての海外、それもひとり旅。
無謀が若者の特権とは言え、やはり今思うと何も考えずに、ただひたすらにインドへ行くことしか考えていなかったのだろう。

行きの飛行機と、帰りの飛行機だけ決めて、その間17日間は、気の向くままのフリープラン。

頼りは「地球の歩き方」1冊と、抗生物質をカバンに忍ばせて、トラベラーズチェックで換金。

本当に、よくぞ出国したな、と褒めてやりたい。

同じことは絶対できない。大人になって「無謀の怖さ」を知ったからかも知れない。
また、世の常識に慣れたせいかも知れない。
若さは、それゆえに未熟であり、リトマス紙のようであり、無鉄砲な存在だ。

印度で目にし、息をし、歩き、夢を見た。

潜在意識にしまっておいた、記憶の片々が、「藤原新也」の名とともに蘇る。

そうか、もう彼は78歳か、20も年上なんだ・・・・・・

35年前の記憶がスライド写真のように、ゆっくり、そして鮮明に浮かんでくる。

印度放浪は、僕の大きな大きな旅の1ページ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

32年前、この業界に入って4年ほど経っていた頃。

1990年4月から9月末まで6ヶ月間、大阪鶴見緑地で、「国際花と緑の博覧会」が開催されました。

 

何度か、ここでも書きましたが

私は、「大輪会水のファンタジアム」というパビリオンの催事ディレクターとして、現地に通っていました。

国際博覧会のパビリオンともなれば、事務局スタッフはもちろんのこと、表に立つコンパニオン、運営、技術、警備、清掃、物販など多岐にわたるスタッフとの連携・協力が不可欠です。

長丁場なので、実にさまざまなことが起こります。

 

当時、世界初のウォーターショーということで、ロボットの指揮者による、ウォーターオーケストラが素敵な音楽を奏でるショーがメインでした。口コミでそのショーの素敵さが広がったせいか、電力館と大輪会パビリオンが人気を二分するほどでした。

嬉しい反面、お客さんが殺到することになり、安全かつ満足度を失わないような運営が求められました。

 

私のミッションは、整理券を求める待ち客対策です。

整理券を得るためにできる行列のお客さんに「待っていること」を忘れさせるイベントの実施が求められました。

 

また、当時40社の連合体の大輪会グループでしたので、企業の日ということで、40社の企業のイベントを併せて企画し、実施するために、連日企業周りをしたものです。

 

その甲斐があり、大輪会は大盛況のうちに終了し、その後も同窓会を毎年開催するなど、今なおその当時のチームワークが残っています。

 

残念ながら、亡くなった方もいらっしゃいますが、このイベントを通じてイベント業界だけではなく、実に様々な企業の皆さんと作り上げたこと、今も誇りに思いますし、

私にとってのイベント業界人生でも一際心に残る催事の一つです。

 

2025年には大阪・関西万博が開催されます。

賛否はありますが、やはり楽しみです。

 

コロナ禍で、人が集まることを良しとしない風潮が蔓延しましたが、

改めて、イベントの必要性、イベントの持っているパワー、人を笑顔にする、人の心に突き刺さるものがることも実感したに違いありません。

 

私にとってものカウントダウンのイベント業界人生において、どんな万博になるのか、非常に楽しみです。

 

昨日は、当時一緒に働いていた先輩と懐かしい話に盛り上がりました。

共有できる日々を過ごした、先輩・後輩・同僚たちと、また一杯飲みたいものです。

 

Thank you for ALL.

 

*写真は、キャラクターてんまくんの氷像パフォーマンスの作品です。

真夏の日に、氷像職人さんにその場で製作してもらいました。たくさんのテレビなどの取材を思い出します。

新型コロナウイルスも感染者数は少しずつ減少傾向になってきている。
第何波か、もうわからないくらいだ。
重症化さえしなければ・・・
2020年から、もう、3年弱も経てば人の動きも順応しているのだろう。
感染症対策は必要だけれども、
インバウンドの緩和もされ、徐々に日常が戻りつつあるのだろうか・・・・
新聞に面白い記事を見つけた。
「おてつたび」
人手不足に悩む地方の仕事を、手伝いながら旅をする若者が増えているそうだ。インターネットで情報を共有し、「人手不足地方」と「若者」を農作業など短期アルバイトでつなぐというものだ。
かく言う僕も、40年近く前、大学生時代に北海道の酪農家で1ヶ月余りの住み込みバイトをした経験がある。
町ぐるみで、牧草や昆布の収穫時期に合わせて、都会の大学生を短期間「労働力」としてアルバイトで雇ってくれる、学生は夏休みにアルバイト+地方への住み込みという貴重な経験ができる、双方ともウインウインの関係だ。
まぁ、このような取り組み自体は昔からあったけれども、WEBが当たり前の現代において気軽に情報共有でき、双方の情報入手が手軽になったことも要因の一つだろう。
新型コロナ感染症で出歩くこともままならないここ数年のことを考えると、どんどん、このような取り組みに若者が参加することは、嬉しい限りだ。
また、WEBワークで、働く場所に制限がなくなりつつあることも、今後の生活様式、生き様に影響があると思える。
人生の多様化を許容し、特徴のある生活を享受することは、今後の人生にプラスになるだろう。
過去の価値観が揺らいでいる今こそ「新しい価値」を創造し、構築するチャンスかもしれない。

23年前の1999年、ギリシャ・アテネ市内にあるローマ式のオデオンいわゆる屋外音楽堂・劇場であるヘロディス・アッティコス音楽堂で「ジャパンフェス」が行われ、私は舞台進行スタッフとして1週間近く、滞在。

 

日本からは、音響エンジニア、照明エンジニアそして舞台進行スタッフが現地のスタッフと打合せをしながら、準備を行います。

しかしながら、慣習の違いで、とにかく彼らの仕事の進め方が遅い。シエスタとか何とかで昼間は仕事をしない。昼寝時間だそう。

まぁ、日本であれば、2日で済む打合せと仕込みが倍以上の日程が必要となる。おかげで、休憩時間が増えて観光などができたのは良かった気がするけれど・・・・日本が働きすぎなのか。

 

イベントの内容は、日本から太鼓集団やダンサーグループなど、

日ごろ日本で活動しているアマチュアの団体が渡航費用を払って、世界の名だたる劇場で披露するというもの、お客さんはその国の日本に興味を持っている方々。

プロではないので、ある意味趣味に近いけれども、海外の方々にとっては、物珍しさも手伝ってそれなりに拍手を頂戴していた。

 

民間レベルの文化交流だけれども、このような催しがたくさんあれば、お互いに色々理解が深まる気がする。

 

新型コロナウイルスで、交流が難しい昨今だが、状況的には、世界がグローバルに繋がっていることが、このコロナ禍でハッキリしたのも確か。経済的にも、文化的にも、エネルギー問題など、一国で完結する時代ではなく、様々な国との交流が必要。

 

イベントは一過性のものだけれども、そこで生まれた交流は持続可能なものだし、そこから新しい価値が生まれるはず。

 

コロナによって、大きく変容した様々な価値観を、良い意味で前向きに捉える必要があるのだろう。

ツꀀ