Category Archives: 中野ヒストリー

26年前のインドですから、それはそれは、トラブルの連続です。

(というか、最近のインド事情がわかりませんが。)

 

電車・バスは時間通りの来ないのは、当たり前。指定乗車券を買っても席はなし。歩いていると「バクシーシ」って施しを求めてくる。彼らにとって、富める者から施しを受けるのは当たり前・・・

カルカッタから、電車でバラナシーへ。ヒンズー教徒の聖地ですね。ガンジス川の右岸は建物がこれでもかって建ってますが、左岸は荒れ地です。これは、左が不浄という、彼らの思想からきているんでしょう。なので、食事も右手だけ食べますし、逆に排泄には左手でナチュラルウォーターウォシュレットよろしく、って感じです。

そこで、見たものは

沐浴をしているヒト、洗濯しているヒト、歯を磨いているヒト、ただただ、祈っているヒト、そして火葬場で焼かれているヒト・・・・・・

生死がまさしくそこにありました。今もなおその光景は忘れられません。

輪廻転生・・・・・彼らはそこに、死にに来ています。そこで死ねたら本望、生まれ変わればキット違う幸せな人生が待っている・・・・

カースト制度は表向き禁止されているけれども、その当時、今もなおその制度な根強く残っている気がします。

その後、国境を超えて、ネパールのカトマンズそしてポカラへ・・・・・そのあまりにもゆったりした空間・時間に、わたしは少し、ほうけたように、日々を過ごしていました。バラナシーでのことがあまりにも衝撃的だったのかもしれません。

その後アグラーでタージマハールを見たり、ニューデリーで宙に浮く大道芸人を見たり、そして明日帰るというタイミングで、ニューデリーの街中で「中野縲怐vって私の名前を日本語で呼ぶ声が・・・・

「えっ・・・・・」そこには、大学時代の友人が立ってました。

日本でも、大阪でも会わないのに、なんでここなん?って感じでした。でもその出会いがなかったら、私はインドから出国できなかったんですね。

というのも、初めての海外ですから、空港税というものを払うことをすっかり失念して、ルピー貨幣はすっかり使い果たしてしまっていました。彼と出会わなかったら・・・・と思うと、少しぞっとしますね。

まぁ、何らかのトラブルはあって出国してたと思いますが、

社会人になる前の、23歳の若造がその旅旅で感じ体験、体感し、その視界で見たモノ、臭った臭い、すべてが原点になっている気がします。

学生から社会人への転機での、エポックメイキングな旅になったことは、間違いない「インド・ネパール17日間の放浪記」でした。

 

 

 

就職も決まり、2月下旬に「インド・ネパール17日間放浪の旅」に出ました。

なんで、インド?って感じでしたが、今考えても理由が思い浮かばない。

ただ、事実として、「初めての海外旅行」「一人旅」「行きと帰りだけが決まっている旅」ということ・・・・・無謀ですよね、どう考えても。

 

とにかく、ええままよ、とばかりに、伊丹空港から、タイ・バンコクでトランジットで1泊。その後、当時のカルカッタへ・・・・・

タイ・バンコクでは10分で行けるホテルに1時間もタクシーに連れ回されたり、変な所に誘われたり・・・初海外の洗礼を受けながら、なんとかインド・カルカッタへ。

カルカッタは、2001年には正式にコルカタと正式名称になったようですが・・・

 

とにかく、空港から出た瞬間に、臭いと喧噪と、汚濁と・・・・・申し訳ないですが当時の状況を現すとそんな言葉しか出てこない。路上では、「バクシーシ」と施しを受けて当たり前・・・・

とにかく、その日の宿泊を探さな・・・・・「地球の歩き方」を片手に毎日、宿を探してた気がします。

ただ、今考えても、社会に出る前に「インド一人旅」は本当によかったと思います。(続)

 

 

大学生活も終わろうとしている、1987年。この時期は確実に売り手市場でしたね。当時リクルートに会社案内請求ハガキを送ると、とんでもないくらいのパンフレットやガイドブックが自宅に送られてきたものです。

内定者は、まさしく囲われて、海外旅行とか・・・・・・・・

金融・証券などは超人気ジャンルでしたね。

私の友人もリクルートスーツに身をつつんで、会社回りをしていたものです。

私は、教育実習で、教師職にげんなりだったので、・・・・どこかフワフワしてた気がします。

そんな時、何でもお手伝いセンター時代に知り合った会社から、誘っていただきました。イベント業界にやり残したことがあったことと、自分自身の力量を試すには大きな会社よりは小さな会社のほうが、ノウハウ・仕事を覚えるのも早かろうということで、当時3人しか社員さんがいない小さな会社に就職が決まりました。

まぁ、何社かテレビ局や大手の広告代理店も受けましたが、コネのない自分はかすりもしなかったので、逆にその小さな会社での決意は固くなった気がします。

最近、大学生と就活などの話をする機会がありましたが、「どこの会社」に入れるかを気にしているヒトが多いですね。本当は「何をしたいのか」が重要なのに、・・・ましてや、昨今の状況を鑑みてみると、10年後20年後その「大きな会社」すら、なくなってしまう可能性があります。事実黄金期(1987年)に就職した証券会社はことごとく、バブルとともに、無くなってしまいました。

私の基準値は「会社」が無くなっても自分のノウハウで食べていきたい、その為に小さくても仕事を覚えられる会社がいい、と考えてました。

これは、1000人ツアーの大失敗が教訓になっています。やはり基礎知識、基礎からのノウハウがとても大切だということ。

ということで、1987年3月から、社会人として働くことになります。

その前に、卒業旅行ということで、「インド・ネパール17日間一人旅」に出かけます。

その話は、次回に・・・・・・

1985年・夏1泊2日の1000人ツアーは決行されましたが、その成果たるや、散々たるものでした、、、それでも参加いただいた方々には満足いただくように、精一杯のおもてなしをしました。
慣れない接客業含めて、スタッフたちも一生懸命に働きました。

しかし、所詮自己満足です。

お客さんからは、予定通りのイベントが開催されないこと、などクレームの嵐です。

そらそうです。1000人集まるはずが、300人も乗船してないのですから・・・・・

兎にも角にも、やりきることがミッションと・・・・・・

そんな時はやはり、ココロもササクレてくるものです。

若いということは、エネルギーが一致している時はものすごいパワーを発揮しますが、一旦崩れると、その負のパワーがほころぶのも、早い。

結論は大失敗の1000人ツアーでした。

その後、ご迷惑をかけた方々には、働いてお返しするしかありません。

あらためて、思うことはノウハウもそれほどない、若いというだけのパワーだけでその器以上のプロジェクトに取り組んだということ、自分たちを過信していたということ。

その後、「なんでもお手伝いセンター」は解散的になり、結局はばらばらになりました。

私は、就活しながら、
学校の先生になるべく、教育実習に母校に通う日々が始まりました。

それでも、教育実習で体験した裏の教育の世界・・・・暗澹たる思いの中、やはり、中途半端でやり残した、イベント業界のアルバイトを未練がましく、追いかけていたのでした。

「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」は後、ロープマンから受付担当、そしてフロアーADと、年々役割が偉くなっていきました(笑)

その後、イベントスタッフの仕事が増えていきます。

アイドル野外コンサートの警備、ライブツアーの運転手兼AD、プロ野球12球団スポーツフェスティンバル選手管理、大鳴門橋歩こう会誘導スタッフ、ツール・ド・フランスの警備、ラジオ船上公開放送のスタッフ、ディスコパーティ企画、平塚七夕まつりの七夕買い付け、獅子舞、七福神パフォーマンス、水中どぼんゲーム、タレント送迎、甲子園若人の祭典AD、ビアガーデンでのDJステーションフロアAD、などなど。

そして、

1985年(S60)6月淡路島と徳島県を結ぶ大鳴門橋が開通。明石海峡大橋早期着工をめざし、淡路島全島を舞台に繰り広げられたのが、「くにうみの祭典~淡路・愛(あい)ランド博」

そして、その頃、その祭典の様々プロジェクトに関わることになります。

我々、「なんでもお手伝いセンター(のちMS企画に改称)」の若手スタッフは、もう “行け行けドンドン”でしたね。

今思えば、
大きなプロジェクトに関わっているだけで、そのプロジェクト全体を仕切っているよな錯覚に囚われていたんですね。

大鳴門橋が開通する前は、「大鳴門橋を歩こう会」イベント。
船で行く「淡路くにうみの祭典」では船上ラジオの公開放送イベント。
新しくできた淡路島のペンション取材。

ありとあらゆる、島内イベントにかりだされました。
それが、ある意味若いスタッフのモチベーションになっていました。

そんな時です、夏に1500名乗りの船を使った「1000人ツアー」をやらないか・・・・と。

上げ潮の時に、ますますモチベーションがあがるプロジェクトです。
その時の取材がこの「情報誌ぴあ」です。

もう逃げるわけにはいかない・・・・・・2つ返事での決行でした。(続)

私は、その日から「関大前雀荘」通いから、「武庫之荘・何でもお手伝いセンター」へ通うことになります。

携帯電話等無い時代ですから、机に固定電話1本あるだけのワンルームでの生活が始まりました。

とにかく、「何でもお手伝いセンター」の存在を知ってもらうために、チラシを配りまくりました。マンション、アパートの郵便受けに入れるポスティング。通勤客相手に、武庫之荘駅前でチラシ配布・・・の日々。

そして、初めての何でも屋の仕事・・・・・・

場末のスナックの「換気扇洗い」でした。

とにかく友人と2人でそこに向かい、換気扇を取り外し、洗剤はアメリカ製のもので特殊な洗剤と言って、ゴシゴシ油汚れを取りました。今だから言えますが、普段そんなことしたことが無い二人です。誤摩化しながら小1時間で終えて、元通りに取り付けて、二人で報酬が3,000円だったと思います。

が、

その後クレームの電話・・・換気扇がちゃんと取り付けてられなくて、落ちてくる。すぐに舞い戻って平謝りしながら、事なきを得たのが最初の“仕事”でした。

その後も、ビール工場の瓶詰め、化粧品のデモ販売、引越の手伝い、ラウンジへの客呼び込み、テキ屋でのイカ焼き、牛乳配達、他人の披露宴のアトラクション出演、獅子舞パフォーマンス、吉本新喜劇の大道具の運搬運転手等等。

様々な仕事が舞い込んできました。

とともに、

スタッフも増えていき、友人・知人がまた知人をと・・・・・

登録スタッフだけで、200名以上になっていきました。

 

そして、初めてのイベントの仕事以来がありました。

日本テレビ系の事業「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」

学生アルバイトを10人ほど、集めてよ・・・・・ということで、場所は忘れてしまいましたが、「ロープマン」の役割でした。そう、YesかNoかで左右に分かれる時のロープマンが私がこの業界で初めて経験したイベントスタッフだったのです。

その後も様々な仕事をこなしながら、20歳の青春を謳歌していました。(続)

 

1年間の暗い浪人生活から、解き放たれた30年前の春・1983年、私は関西大学経済学部に通うことになりました。

本当は、体育の先生になるために、体育学科志望だったんですが、当時の共通1次試験に阻まれて、「社会科の免許」が取れる大学を2次志望として、合格したのが、関大でした。

教員免許を取るための「単位」を選択し、春のキャンパスライフに胸トキメかせていたのを、思い出します。

夏休みには、「北海道の牧草農家で1ヶ月間の住み込み」のアルバイトをして、お金を貯めて、車の免許を取り、あとは、「教員免許を取る」ことで、ほぼ、私の大学生活での目的は終わったと言っても過言ではありませんでした。

それからは、ひたすらアルバイトの日々でした、「学相(学生相談所)」通ってアルバイト紹介してもらって・・・・・・・・その間は、関大通りにある「雀荘」に入り浸り、授業の間に遊んでるのか、遊んでる間に授業を受けているのか、全く怠惰な生活を繰り返してた気がします。

そんなある日、高校時代の友人から1本の電話があり、「おもろいことやるから、一緒にせえへんか・・」という誘いの電話がありました。

阪急武庫之荘駅から歩いて5分ほどのワンルームマンションに友人は私を連れていき、A5 サイズのチラシを見せて、「今からポスティングや」

なんか、嵌められた気がしましたが、そこは好奇心旺盛な若者だったので、「ええままよ」と・・・・

一緒にポスティングをしたことで、

「この業界への見えざる道」が用意されてたのかもしれません。(続)