Category Archives: 中野ヒストリー

間も無く、春節祭。
今年は、24日から、始まります。
新型肺炎が心配ですが、多くの中国人も日本にやって来ます。
ビジネス的には、やはり有難いことです。
そして今、中国人が日本に来てしたいことの4位が
「カプセルホテルに泊まりたい」(出典:トレンドExpress)だそうです。
中国系のメディアからの取材も増えているそうで、
「清潔感やリーズナブルさに加え、(ホテルの)システムやコンパクトさが面白く、普段は感じられない体験ができるといった点」が受け入れられているようです。
また、巣穴のように寝室が密集しているカプセルホテルの光景は海外でまだ珍しく、SNSで映える格好の撮影スポットになっていると思われます。
しかし、私が学生時代や若い頃は飲み過ぎて、終電がなくなってはカプセルホテルにお世話になるという、ある意味苦い思いしかないのだけれども、
月日が経ち、インバウンドからすると、非常に魅力的にうつるらしい。
時代とともに、また人によっては、同じものを見たりしても、魅力的に感じるのだろう。
海外の人々の価値観は、思わぬものに向けられるもので、ビジネスチャンスも、どこから広がって行くかわからないものです。
少子高齢化社会突入の日本において、「海外から見た価値」に気づいて、そして見つけていくのが「勝ち組」になるための施策かも知れません。
これからグローバルな時代には「価値の多様化」を見抜く力が必要な気がします。

オリンピックイヤー、2020年令和2年も、松の内が明けました。

月日が経つのは、本当に早いものです。
1月は行く、2月は逃げる、3月は去る・・・・・
気がつけば、春なんてことになりそうです。

ここ最近は、雪不足のニュースなども見聞きしますが、やはり冬は寒い、健康管理をしっかりしないといけません。

また、いよいよ、オリンピックが7月に始まりますが、3月には聖火リレーが全国で始まります。私の東京の友人・知人もオリンピック絡みの仕事で大変なようです・・・

とはいえ、やはり世界からアスリートだけではなく、観客もやってくることを考えると、その受け入れや対応をしっかりしないといけないと思います。
昨今の大阪におけるインバウンドの多さ、特に道頓堀は、インバウンド向けのお店に様変わりしてますし、民泊やホテルの乱立など、あたかも日本ではない状態になっています。

彼らの常識と日本の常識の乖離は致し方ないとはいえ、今後予期せぬトラブルが発生しないとも限りません。

インターネットやSNSなど、もはや国境があるようで無いに等しいくらいに、世界が狭くなっている気がします。情報の真偽が入り乱れ、ある事ない事、どれが真実かどうかもわからない。
そんな情勢の中、第3次世界大戦・・・というキナ臭いワードが世界を駆け巡っている。
どんなキッカケで、そのような方向性に向かうか、本当にわからない。

東京オリンピックは楽しみではあるけれども、そのような世界情勢を意識はしておかねばならない。

今なお、貧困が人々を苦しめているのも事実であり、国家権力との闘争もあちこちで起こっている。
平和の象徴であるはずの、オリンピックが政争に使われている。
そんなふうに考えると、少し凹んできますが、純粋にアスリートの日頃の努力を見ていたいものです。

春が来て、やがて暑い夏、日本中で熱い戦いが繰り広げられるのを楽しみにしたいものです。

 

 

25年前の早朝、突如襲った地震により、神戸を中心とした地域が災害に見舞われ、多くの人々が、亡くなり、被災されました。改めてお悔やみとお見舞いを申し上げます。

その後、2011年の東日本大震災など、毎年のように日本列島を、また世界各地で自然災害が起こっています。

災害は、突如襲ってきます。

しかしながら、当事者になるまでは、自分だけは大丈夫であろうという、そんななんとなく安全神話を信じている気がします。かく言う私自身もそんな気持ちがあることは否めません。

仕事柄、様々なプロモーションイベントを手掛けてきましたが、昨今は「防災意識」の啓蒙・啓発を知らせるイベントが増えてきた気がします。

地震だけではなく、豪雨や熱波、火山噴火など自然が起こす様々な災害にどのように対応し、対処していくか・・・・
起こすことを止められない災害に対して、起こった時、起こった後、どのようにしていくのか・・・
減災意識の高まりとともに、具体的にその時々の対応策をより多くの方々が共有する必要を感じます。

自助・共助・公助が基本ですが、
まずは、自分自身を守ることが先決です。日頃から自宅、勤め先、いる場所からの避難先を決めておく、意識しておくこと。避難グッズの装備など、日常でできることはしっかりやっておきたいものです。
また、近所、社内の仲間など、お互いに助け合うためのコミュニケーションも必要です。
特に、高齢者の安否確認、幼児・児童たちのフォローは大切なことです。互いに、「その時」のために、連携が必要です。

公助は残念ながら、初動の際はあてにできないような気がします。役所の方々も被災者になっている可能性が高いためです。
ですので、日頃から、自治体での避難訓練や、避難場所の運営方法、備蓄などを準備していくことが大事です。県単位や、市単位での活動は有事の際は、あまり機能的ではありません。
小さな自治体ごとのきめ細かい対応が必要となってきます。

毎年1.17を迎えるたびに、その悲惨な情景を思い出します。
人間の力で、自然災害を0にできなくても、被災を最小限にすることは、その努力でできます。
私が関わっている「防災イベントなど」によって、より多くの方々の意識に、危機管理をすることの大切さを、理解していただければ、と思います。

突然の自然災害で、一人でも多くの方々が助かることを祈りつつ、今日一日過ごしたいと思います。

2020年1月17日

 

 

 

 

 

 

 

令和2年の始まりです。

オリンピックイヤーです。

1年ごとに、こうして振り返りつつ、「新しい1年」を考えます。
あっという間に、月日は過ぎ去ります。
そんな中、昨年も様々な多くの出会いがありました。
出会いの連鎖が、実に様々なものをもたらしてくれます。
過去の流れが今となり、未来への流れは、今にあり・・・・
本当に、多くの方々に助けられて、「今が有ります」

今年もどんな出会いがあるか楽しみです。

「有難う」を常に心掛けて、令和2年を素敵な1年にしたいものです。

本年も、皆様にとって、幸多い年になりますように・・・・

2020年・令和2年 1月吉日
株式会社ニューズ 代表取締役 中野幸次

 

 

今年は、年号が、平成から令和へ変わり、新しい時代を感じながら年末を迎えております。

弊社も、本日27日で仕事納めとなります。

1年を振り返ると、本当に様々な出会いの中で、いろいろな仕事をさせて頂きました。

また、縁がなく、取りこぼした仕事も数多く、もっと精進しないといけないと思います。

全ての事が、うまくいくわけがないのは理解していますが、心のどこかで「もう少しこうすれば良かった」の思いは拭きれません。

運や、タイミングなど、実にその理由は様々です。

しかしながら、

携わった全てのことが、糧になり、また未来に出会う様々な仕事にフィードンバックするものと信じています。

さらなる高みに向かって、1年を振り返りつつ、令和2年に向けて、心新たに取り組んでいきたいと思います。

今年出会った、全ての方々に感謝したいと思います。

2019年 12月27日 株式会社ニューズ 中野幸次

毎年、クリスマス間近の日曜日に神戸で行なわれるイベントです。 1999年から、その仕事に携わって、今年で21回目となります。 4500名の観客の方が参加する「RALLY」と600名の方が参加する「Xmas パーティ」の2部構成。 毎年、大盛り上がりのイベントです。 そして、弊社もこのイベントでその年の大きな仕事は、仕事納めとなります。 このイベントが無事終わると、「その年」を振り返ります。 実に様々な仕事に携わらせていただいたことを改めて感謝しますし、 新たな出会いにも不思議な縁を感じます。 今年は、平成31年から令和元年へと、年号が変わり、新しい時代の幕開けでした。 思えば、令和元年最初の皇室の「四大行幸啓」の一つ「全国豊かな海づくり大会あきた大会」の仕事をやらせていただいたことは本当に光栄でしたし、今後も皇室のお仕事をさせていただけることは、弊社にとっても大変誇りに思います。 その他にも、実に様々な仕事をやらせていただいたことは、これからの弊社の経験値として大きな財産になりました。 また、来年はオリンピックイヤーとなります。 メディアが大いに煽ることが予想されます。東京方面は、人不足、ホテル不足など、 イベント業界にも大きな影響があります。 とはいえ、祭りの後のなんとやら・・・で、その後が大事です。 浮かれてばかりでいられません。 やるべきことをしっかり地道にやり続けることが必要です。 イベントは仮説であるが故に、儚く、そして尊いものです。 筋書きのある非日常空間の演出が、イベントの醍醐味です。 オリンピックという非日常を楽しんだ後は、足元をしっかり見据えて、取り組みたいものです。 来年もまた、クリスマスはやって来ます・・・・・

 

今週末の本番の準備をしながら、少し、令和元年を振り返る、、、、

 

 

年号が新しくなった平成から令和へ・・・・・

 

思えば、昭和から平成へ変わった時、日本国民は慌てふためいていた気がします。

32年前、昭和64年、正月が明けて、1月7日昭和天皇が崩御。

私は、就職して、2年が経とうとしていた頃で会社を辞めることを決めていました。

天皇崩御のため、社会全体が喪に伏したような状態になったため、軒並みイベントは中止・延期を余儀なくされ、

私は、2月に会社を辞めました。

私の社会人での最初のターニングポイントが重なった年だった気がします。

 

そして今年、生前退位ということもあり、どちらかというと、歓迎ムードの中の新しい時代の始まりになりました。

 

私にとって、令和元年はどんな年だったろう、、、、、

 

最も、大きなことは、やはり、初めてのラジオパーソナリティへのチャレンジかもしれません。

決して、ずっとやりたかったわけでもなく、縁があってそうなった気がします。

やり始めると、これが結構楽しい、構成を考える間も整理がついて面白い。

そして、なんと言ってもゲストとして出ていただいた方々には感謝しかありません。

忙しい中、古川橋のスタジオまで、御足労いただき、その人の人生を少し垣間見せていただいた気がします。

30分という短い中、言い足りないことが多々あったことはご容赦願いたいですが、また、ゲストに来ていただいてもう少し、深く話をお聞きしたい方々ばかりでした。改めて感謝申し上げます。

また、この先、ゲストに来て頂く方々との出会いが楽しみです。

 

ラジオのパーソナリティという未知の世界に踏み込んだおかげで、仕事にも好影響がありました。

全体をしっかり構成し、進めていくことを再認識できました。俯瞰で見ることの大事さを改めて感じましたし、

そして何よりも、相手に伝えるためにどのように言葉を組み立て、どのように言葉を発し、何を伝えたいかをしっかり自分自身が認識するということ。自分自身の頭の中で整理できていないことは、相手に伝わらないことがわかりました。

特に、演出・舞台監督をやっている時こそ、的確に相手に伝えないと、うまくいきません。

時間の制約のある中で、これは大きかったです。ラジオのおかげだと思います。

タイムキープする難しさを感じながら、特訓できた気がします。

 

そして、令和2年はどんな年になるのでしょうか・・・・・・

ラジオに関しては、まだまだイベント業界で出会った素敵な方がいらっしゃいますので、

是非、お時間をいただき、ゲストとして来ていただき、皆さんにご紹介したいと考えています。

 

https://www.yumenotane.jp/musounotouzainanboku

 

 

 

先日、神戸マラソンに出場。 2015年に京都マラソン、2018年大阪マラソンと、関西の3大マラソンを制覇させていただいた。 しかし、最初は抽選に当たらず、外れれば外れるほど、走りたい熱が燃え上がるばかり・・・・ とは言え、毎年1歳ずつ歳は重ねるわけで、身体のあちこちが痛くなったり、弱くなったり、 フルマラソンに耐える体力を維持するのも、大変な状態。 特に、首の椎間板ヘルニアは、腕や指、肩甲骨などの痺れをもたらし、単なる体力維持ではすまない。 しかしながら、記録ではなく、完走(完歩)し、ゴールへの意気込みは衰えず、大阪城公園を走る日々。 また、市民プールでアクアウォークで体力をつけて、なんとか出場。 昨年辺りから、20km辺りから、ペースがガクンと落ちてくる。 ふくらはぎの痛み、膝の痛み・・・・・エアーサロンパスを携帯して走る。 エアーサロンパスを吹き付けて、誤魔化し、誤魔化し、前に進む。 1歩ずつ、とにかく前に進む。このタイミングは、走ることよりも、ただ、前に進むことしか考えていない。 バスによる強制収容時間との戦いの中、なんとか前に進む、ゴールを目指す・・・・・・ 思えば、中学生の頃から、走っていた気がする。 住んでいたのが、安威川や神崎川、そして淀川に囲まれた地域だったのも影響があった気がする。 何かあれば、川原で遊んでいた、その当時、良くも悪くも川の近くは、我々の遊び場だった。 流れる川の様子を見ながら、遠く、琵琶湖を思ったり、また大阪湾を想像しては「早く大人になりたい」と考えていた。 堤防は格好のランニングコースだった。 小学、中学、高校と学生時代にはいつも川があり堤防を走っていた。 もしかしたら、その頃の心象風景を思い出すために走っているのかもしれない。

 

 

 

 

23歳にして、初めての海外旅行、また一人旅で、かつ、行き(入国)と帰り(出国)だけが決まっている旅。

まさしく若気の至りとしか言いようのない旅程と言える。

あれから、30年以上たち、その後、いろんな国々に観光・仕事で行かせてもらったけれども、
やはり、インド放浪の旅は、強烈に残っている。
今、同じ旅をしろと言われても、できない。

昨今のインバウンドブームや先のラグビーW杯など、海外から日本に来る方々、概ね良い印象を持ってもらっているようだ。逆に言えば、まだまだ日本の実態を海外の方々は知らないのだろう。
極東に位置する我が日本は、その距離以上に、不思議な国なのかもしれない。

また、先日の即位礼正殿の儀による、世界への天皇陛下の即位の宣明。
日本国の世界における立ち位置。
唯一の原爆被爆国としての、メッセージ。
地震・台風・豪雨などの自然災害列島としてのこれからの役割。

まだまだ、地球上において、様々な争い事が起こっている、テロ組織がどこかで蠢いている。
貧困が故に病気が蔓延している。
地球温暖化に伴う異常気象問題。
プラスティック問題などの環境問題、などなど、実に様々な諸問題が全世界各地に横たわっている。

本当に、世界は広いと思うけれども、その国に課せられたミッションを忘れてはいけない。
地政学的に極東に位置し、海に囲まれている日本の役割とは・・・・・・

SNSなどによる情報拡散の時代に我々はどう向き合っていくべきなのか、無関心ではいられない。

ガンジス川からの光景は、今も自分の心象風景として刻印されている。
あれから、30数年経ても、それは変わらない。
幾分、衝撃的な現実を目の当たりにして、少し滅入っていたのかも知れない。
なので、当時からインドの伝説の宿と言われる「久美子の家」に立ち寄る。
当時日本人なら、必ず立ち寄る、バックパッカー向けのゲストハウス。
ガンジス川の現実に少し疲れたのか、日本人に会いたかったのだろう。
しかし、そこに貼られた「行方不明者の写真」の数々。
インドは治安が悪くないとは聞いていたが、残念ながら、「日本人のパスポート」は高く売れる故に、狙われやすい。安心安全が当たり前の日本とは全く違う価値観。
私は、心身ともに、癒されたくて、ネパールへ向かうことにした。
陸路で国境を越える、エベレストの国・ネパールは顔つきも優しく、なんとなく、日本人に近い気がしたものだ。
私は、カトマンズから避暑地のポカラへ。
インドから逃げるように急いだものだ。
生と死が隣り合わせのインドから、エベレストを背にした町・ポカラ。
ここで、いく日か、深呼吸するのも悪くない。
湖畔のゲストハウスで、何も考えずに、ボーッとする。
激辛の食べ物で胃が暴れていたのを、ここで癒す。
刺激がありすぎると、普通が愛おしくなる。
その後、再びインドに入国。
タージマハルから、ニューデーリーへ・・・・
強烈なインド から身を守る術は観光客に徹すること。
目に入る風景、耳に入る音、街の匂い、寄ってくるインド人たち、それらをあくまで、観光客として捉えること、ポカラからインドに再び入国に際して、自分に課したインド放浪の旅の術だ。
17日間の放浪の旅が終わって、帰国。
伊丹空港に着いて、待っていたのは、ロストバッゲージ。
最後まで、インドらしい気がしたものだ・・・・・・
今、改めて「インドを考える」
13億人という、巨大な人を育むインド 。
暑さ、汚濁、喧騒、環境そのものが混沌としているカオス状態。
カーストに根差した、ある意味、生きることに対する諦め・無常感。
輪廻転生を信じることでそのバランスを保つ倫理観。
今のインドは、知らない。30年以上前の私に刻んだ風景が大きく変わっていることを祈るしかない。

インドネパール放浪記
縲悄迫≠フ街縲彌r

日々、「地球の歩き方」と睨めっこしながら、どこへ行こうか・・・・決まっているのは、最後は、ニューデリーから、帰国することだけ。

コルカタ(旧カルカッタ)から、次に目指したのは、インド北部のヒンドゥー教の巡礼者の聖地・バラナシー(ベナレスあるいはワーラーナシーとも言う)
ガンジス川沿いにあるこの街にヒンドゥー教徒たちは、巡礼にやってくる、あるいは、ここで死を待つ人もいるらしい。皆その聖なる川で、ひたすら沐浴をする。
私は、船からそれを眺める。河岸に煙が上がっている一角がある、船頭さん曰く「火葬場だよ、長く見るんじゃない」と窘められた。輪廻転生、この川にその灰を流されることで、生まれ変われることを祈る。
まだ、なおカースト制度が深く残るインドの人々の祈りだろうか・・・・
船頭さんの父も、祖父も船頭さん・・・・・他の職業に就く自由はない。
子供の死体が、半焼けで流されている・・・・
沐浴をする人々、洗濯をしている人々・・・同じ川に、死と生が同居している。

その時は、ただただ、船からの眺めにただ愕然としていたものだ。
川辺の右岸には、沐浴をする人々の背後には、ひしめくような建物が川面に映る反面、一方の川辺の左岸には建物が一つもなく、見渡す限りの原野が広がっている。

左は不浄という思想のせいらしい。なので、ご飯は右手で食べ、左手はトイレ時の洗浄となる。

混沌としている街には、像が、牛が、人々と一緒に歩いている、・・・

陸も川も、この煩雑としている国、インド・・・・

今思い起こすと、人間の業がその街に凝縮されているような気がする。

初めての海外旅行、それもひとり旅。 パートナーは「地球の歩き方」のみ・・・ 伊丹から、最初はタイ・バンコクでトランジット。 1泊、バンコクのホテルに泊まって、次の日にインドへ向かう。 旅の試練はその日から訪れる。 空港からのタクシーでホテルに向かっていましたが、一向に着かない。 タクシーの運ちゃんが仕切りに営業をしてくる。 おそらく、「知り合いの飲み屋あるけど、行けへんか?可愛い子いてるよ・・・」って感じ。日本人を見ればそういう営業をすることを聞いていましたので、「ノーサンキュー」と断ったが、ホテルの部屋までついて来られた時は、流石に恐怖を感じた。 次の日、バンコクの空港でインド行きを待っていたら、同世代の日本人と出会い、 色々、この先のことなどを話しながら、彼は「昨日ぼったくられたわ縲怐vって・・・ やっぱ日本人は舐められてるな、と改めて気が引き締まる思いになったものだ。 そして、初めてのインド・・・・・・・ 30年以上前です。今はどうかわからない。 あくまで、私の記憶にインプットされたその時の情景。 空港から降り立って、空港から出た時、、、、、、 喧騒、汚濁、悪臭、むせ返るような熱気・・・・街自体がカオス状態 道路には、物乞いが座っている、ストリートチルドレンや障害を持った人がいる。 「バクシーシ(喜捨)」とボウルのようなものを持って、近寄ってくる。 富める者が貧しい者に施しをすることは当たり前という風潮がそうさせているようだ。 組織的な物乞いもいてると聞かされていたので、ここは、グッと堪えて、気づかないように歩き進む。 象のフンがあちらこちらに落とされている。 とにかく、インドの旅は始まったのだ。 「とりあえず、今日の宿を探そう」 私は、“地球の歩き方”に目を凝らしながら、異国の空気を大きく吸い込んだ。

https://www.arukikata.co.jp/guidebook/series/book/D28

 

教育実習が終わって、少し「先生」への未練を引きづりながらも、イベント業界のアルバイトスタッフをしながら、そのノウハウを吸収すべく、大学生活の残りを過ごしていました。
もちろん、就活もしました。
採用は無理だろうと承知で、大手の広告代理店や在阪のテレビ局の試験は受けました。
結果は言わずもがな、ですが・・・・
そんな時に、声をかけてもらったイベント会社が数社ありました。
当時は、この業界、採用試験なんか無い時代です。
アルバイトして気付いたら「名刺」が出来上がっていて、
「ここが君のデスク、明日からおいで・・・」みたいな感じです。
条件面など聞く間もないくらい、当時は、ブラックな業界でした。
業界的に成熟していなかったと言えるでしょう。
昨今の「働き方改革」なんて言っていたら、会社が持たない時代です。
徹夜は当たり前、会社で寝るのも当たり前、遅刻も当たり前、そんな時代です。
色々、悩みましたが、当時「社長入れても3人」のイベント会社に就職を決めました。
残念ながら、今はもうありませんが、1987年卒業後にお世話になりました。
とは言え、結局その会社には、2年弱しか居ませんでしたが・・・・
ただ、その当時の社長に教えていただいたのは、
「仕事を選ばなければ、石ころをひっくり返せば、その裏には仕事はいくらでもある」
今も、その言葉を思い出します。
事業主になればなおその言葉が重く感じられますし、
断るのは簡単だけども、断らない勇気を持つのは、もっと大変な気がします。
今も、縁があって来る仕事は、よっぽどのことがない限り、基本断らない主義です。
実際に就職先が決またあと、もう長い休みなど取れないことを覚悟してましたので、
就職前の1987年3月、卒業旅行に行くことになります。
そして、なぜか、「インド一人旅」それも初めての海外旅行です。
理由は思い出せません。当時バックパッカーが流行っていたのでしょうか・・・
タイ・バンコクでトランジットをして、コルカタ(カルカッタ)に入り、その後は17日後にニューデリーから出国することだけ決めて、泊まる場所も、行き先もすべて行き当たりばったりの、フリープラン。道先案内は「地球の歩き方」というガイドブックのみ、、、、

 

 

 

1985年の夏の「1000人ツアー」の大失敗後、旅行会社から仕事をいただきながら、その赤字を埋め合わせて行きました。

やはり、モチベーションの低下は計り知れません。いけいけドンドン過ぎた反動です。

結局は「何でもお手伝いセンター」を辞めましたが、イベント業界への未練はありました。その後、それまでお世話になっていたイベント制作の会社にアルバイトスタッフとして、色々仕事をさせていただきました。実践を踏みながらの勉強でもありました。
マニュアルや進行台本の書き方・リスクヘッジのポイント、何を目的としてそれを作るのか、先輩からアドバイスを頂きつつ、手書きで作りながら、そのノウハウを蓄積して行きました。
そのように学びながら、「1,000人ツアー」の開催が、いかに甘いノウハウだったか、大いにその失敗を痛感したものです。

4回生になると、周りは就活のことで騒がしくなります。その当時は、売り手市場で
特に、金融・証券業界は大盛況で、私の友人もそこに向かって面接を受けまくっていました。リクルートから送られてくる会社案内のハガキをこれでもかと送っていました。
しかし、その後バブル崩壊、銀行は統合・再統合と今や当時の銀行の名前すら跡形もありません。証券会社に至っては、本当に泡となり、跡形もありません。
未来予想ができるとしたら、あの就職時の喧騒はなかったろうと思います。
全く、世の中どうなるか、わかりません。
そんな就活喧騒の真っ只中、教員免許取得に必要だったので、私は「教育実習」として母校の教壇に立っていました。

校訓は、誠実・努力・奉仕、今も変わりません。高校時代は器械体操部で3年間、朝昼、夕刻と練習の鬼と化していました。体育系クラブが強かったせいもあります。サッカー部は全国大会にも出ている強豪校でしたし、部活の先生は、元オリンピック選手もいました。そんな思い出深い、母校での教育実習です。あまりいい加減なことはできません。

ただ、
心のどこかに、「教師」はもういいかな・・・って感じで、少しそこへの情熱は薄くなっていた気がします。というのも、やはりイベント業界への未練があった気がします。
「教育実習」では7歳下の高校1年生を受け持ちました。40数人の瞳が自分に向けられる緊張感を今でも思い出します。また、みんなで歌った「HOUND DOGのフォルテシモ」を聞くとその当時の情景が走馬灯のように思い出されます。
それなりに充実した「実習」ではありました。教師はもういいかなっと思っていた私に情熱をくれたのは40数人の生徒たちでした。しかし社会に出たことのない自分が教師になるのは、少し早いのではないか、社会に出てから、教師を目指しても、それは遅い選択ではないだろう、そう結論づけ、結局採用試験は受けませんでした。

決断をするのは、、難しいことです。
「あの時、教師を目指していたら・・」
たられば、はいつの時代にもあります。

今となっては、色々ありましたが、イベント業界でお世話になっていることは、
有難いことだと感謝しております。

1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人縲怩R00人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。