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オリンピックイヤー、2020年令和2年も、松の内が明けました。

月日が経つのは、本当に早いものです。
1月は行く、2月は逃げる、3月は去る・・・・・
気がつけば、春なんてことになりそうです。

ここ最近は、雪不足のニュースなども見聞きしますが、やはり冬は寒い、健康管理をしっかりしないといけません。

また、いよいよ、オリンピックが7月に始まりますが、3月には聖火リレーが全国で始まります。私の東京の友人・知人もオリンピック絡みの仕事で大変なようです・・・

とはいえ、やはり世界からアスリートだけではなく、観客もやってくることを考えると、その受け入れや対応をしっかりしないといけないと思います。
昨今の大阪におけるインバウンドの多さ、特に道頓堀は、インバウンド向けのお店に様変わりしてますし、民泊やホテルの乱立など、あたかも日本ではない状態になっています。

彼らの常識と日本の常識の乖離は致し方ないとはいえ、今後予期せぬトラブルが発生しないとも限りません。

インターネットやSNSなど、もはや国境があるようで無いに等しいくらいに、世界が狭くなっている気がします。情報の真偽が入り乱れ、ある事ない事、どれが真実かどうかもわからない。
そんな情勢の中、第3次世界大戦・・・というキナ臭いワードが世界を駆け巡っている。
どんなキッカケで、そのような方向性に向かうか、本当にわからない。

東京オリンピックは楽しみではあるけれども、そのような世界情勢を意識はしておかねばならない。

今なお、貧困が人々を苦しめているのも事実であり、国家権力との闘争もあちこちで起こっている。
平和の象徴であるはずの、オリンピックが政争に使われている。
そんなふうに考えると、少し凹んできますが、純粋にアスリートの日頃の努力を見ていたいものです。

春が来て、やがて暑い夏、日本中で熱い戦いが繰り広げられるのを楽しみにしたいものです。

 

 

 

 

 

令和2年の始まりです。

オリンピックイヤーです。

1年ごとに、こうして振り返りつつ、「新しい1年」を考えます。
あっという間に、月日は過ぎ去ります。
そんな中、昨年も様々な多くの出会いがありました。
出会いの連鎖が、実に様々なものをもたらしてくれます。
過去の流れが今となり、未来への流れは、今にあり・・・・
本当に、多くの方々に助けられて、「今が有ります」

今年もどんな出会いがあるか楽しみです。

「有難う」を常に心掛けて、令和2年を素敵な1年にしたいものです。

本年も、皆様にとって、幸多い年になりますように・・・・

2020年・令和2年 1月吉日
株式会社ニューズ 代表取締役 中野幸次

 

 

今年は、年号が、平成から令和へ変わり、新しい時代を感じながら年末を迎えております。

弊社も、本日27日で仕事納めとなります。

1年を振り返ると、本当に様々な出会いの中で、いろいろな仕事をさせて頂きました。

また、縁がなく、取りこぼした仕事も数多く、もっと精進しないといけないと思います。

全ての事が、うまくいくわけがないのは理解していますが、心のどこかで「もう少しこうすれば良かった」の思いは拭きれません。

運や、タイミングなど、実にその理由は様々です。

しかしながら、

携わった全てのことが、糧になり、また未来に出会う様々な仕事にフィードンバックするものと信じています。

さらなる高みに向かって、1年を振り返りつつ、令和2年に向けて、心新たに取り組んでいきたいと思います。

今年出会った、全ての方々に感謝したいと思います。

2019年 12月27日 株式会社ニューズ 中野幸次

今週末の本番の準備をしながら、少し、令和元年を振り返る、、、、

 

 

年号が新しくなった平成から令和へ・・・・・

 

思えば、昭和から平成へ変わった時、日本国民は慌てふためいていた気がします。

32年前、昭和64年、正月が明けて、1月7日昭和天皇が崩御。

私は、就職して、2年が経とうとしていた頃で会社を辞めることを決めていました。

天皇崩御のため、社会全体が喪に伏したような状態になったため、軒並みイベントは中止・延期を余儀なくされ、

私は、2月に会社を辞めました。

私の社会人での最初のターニングポイントが重なった年だった気がします。

 

そして今年、生前退位ということもあり、どちらかというと、歓迎ムードの中の新しい時代の始まりになりました。

 

私にとって、令和元年はどんな年だったろう、、、、、

 

最も、大きなことは、やはり、初めてのラジオパーソナリティへのチャレンジかもしれません。

決して、ずっとやりたかったわけでもなく、縁があってそうなった気がします。

やり始めると、これが結構楽しい、構成を考える間も整理がついて面白い。

そして、なんと言ってもゲストとして出ていただいた方々には感謝しかありません。

忙しい中、古川橋のスタジオまで、御足労いただき、その人の人生を少し垣間見せていただいた気がします。

30分という短い中、言い足りないことが多々あったことはご容赦願いたいですが、また、ゲストに来ていただいてもう少し、深く話をお聞きしたい方々ばかりでした。改めて感謝申し上げます。

また、この先、ゲストに来て頂く方々との出会いが楽しみです。

 

ラジオのパーソナリティという未知の世界に踏み込んだおかげで、仕事にも好影響がありました。

全体をしっかり構成し、進めていくことを再認識できました。俯瞰で見ることの大事さを改めて感じましたし、

そして何よりも、相手に伝えるためにどのように言葉を組み立て、どのように言葉を発し、何を伝えたいかをしっかり自分自身が認識するということ。自分自身の頭の中で整理できていないことは、相手に伝わらないことがわかりました。

特に、演出・舞台監督をやっている時こそ、的確に相手に伝えないと、うまくいきません。

時間の制約のある中で、これは大きかったです。ラジオのおかげだと思います。

タイムキープする難しさを感じながら、特訓できた気がします。

 

そして、令和2年はどんな年になるのでしょうか・・・・・・

ラジオに関しては、まだまだイベント業界で出会った素敵な方がいらっしゃいますので、

是非、お時間をいただき、ゲストとして来ていただき、皆さんにご紹介したいと考えています。

 

https://www.yumenotane.jp/musounotouzainanboku

 

 

 

先日、神戸マラソンに出場。 2015年に京都マラソン、2018年大阪マラソンと、関西の3大マラソンを制覇させていただいた。 しかし、最初は抽選に当たらず、外れれば外れるほど、走りたい熱が燃え上がるばかり・・・・ とは言え、毎年1歳ずつ歳は重ねるわけで、身体のあちこちが痛くなったり、弱くなったり、 フルマラソンに耐える体力を維持するのも、大変な状態。 特に、首の椎間板ヘルニアは、腕や指、肩甲骨などの痺れをもたらし、単なる体力維持ではすまない。 しかしながら、記録ではなく、完走(完歩)し、ゴールへの意気込みは衰えず、大阪城公園を走る日々。 また、市民プールでアクアウォークで体力をつけて、なんとか出場。 昨年辺りから、20km辺りから、ペースがガクンと落ちてくる。 ふくらはぎの痛み、膝の痛み・・・・・エアーサロンパスを携帯して走る。 エアーサロンパスを吹き付けて、誤魔化し、誤魔化し、前に進む。 1歩ずつ、とにかく前に進む。このタイミングは、走ることよりも、ただ、前に進むことしか考えていない。 バスによる強制収容時間との戦いの中、なんとか前に進む、ゴールを目指す・・・・・・ 思えば、中学生の頃から、走っていた気がする。 住んでいたのが、安威川や神崎川、そして淀川に囲まれた地域だったのも影響があった気がする。 何かあれば、川原で遊んでいた、その当時、良くも悪くも川の近くは、我々の遊び場だった。 流れる川の様子を見ながら、遠く、琵琶湖を思ったり、また大阪湾を想像しては「早く大人になりたい」と考えていた。 堤防は格好のランニングコースだった。 小学、中学、高校と学生時代にはいつも川があり堤防を走っていた。 もしかしたら、その頃の心象風景を思い出すために走っているのかもしれない。

 

 

 

 

23歳にして、初めての海外旅行、また一人旅で、かつ、行き(入国)と帰り(出国)だけが決まっている旅。

まさしく若気の至りとしか言いようのない旅程と言える。

あれから、30年以上たち、その後、いろんな国々に観光・仕事で行かせてもらったけれども、
やはり、インド放浪の旅は、強烈に残っている。
今、同じ旅をしろと言われても、できない。

昨今のインバウンドブームや先のラグビーW杯など、海外から日本に来る方々、概ね良い印象を持ってもらっているようだ。逆に言えば、まだまだ日本の実態を海外の方々は知らないのだろう。
極東に位置する我が日本は、その距離以上に、不思議な国なのかもしれない。

また、先日の即位礼正殿の儀による、世界への天皇陛下の即位の宣明。
日本国の世界における立ち位置。
唯一の原爆被爆国としての、メッセージ。
地震・台風・豪雨などの自然災害列島としてのこれからの役割。

まだまだ、地球上において、様々な争い事が起こっている、テロ組織がどこかで蠢いている。
貧困が故に病気が蔓延している。
地球温暖化に伴う異常気象問題。
プラスティック問題などの環境問題、などなど、実に様々な諸問題が全世界各地に横たわっている。

本当に、世界は広いと思うけれども、その国に課せられたミッションを忘れてはいけない。
地政学的に極東に位置し、海に囲まれている日本の役割とは・・・・・・

SNSなどによる情報拡散の時代に我々はどう向き合っていくべきなのか、無関心ではいられない。

インドネパール放浪記
縲悄迫≠フ街縲彌r

日々、「地球の歩き方」と睨めっこしながら、どこへ行こうか・・・・決まっているのは、最後は、ニューデリーから、帰国することだけ。

コルカタ(旧カルカッタ)から、次に目指したのは、インド北部のヒンドゥー教の巡礼者の聖地・バラナシー(ベナレスあるいはワーラーナシーとも言う)
ガンジス川沿いにあるこの街にヒンドゥー教徒たちは、巡礼にやってくる、あるいは、ここで死を待つ人もいるらしい。皆その聖なる川で、ひたすら沐浴をする。
私は、船からそれを眺める。河岸に煙が上がっている一角がある、船頭さん曰く「火葬場だよ、長く見るんじゃない」と窘められた。輪廻転生、この川にその灰を流されることで、生まれ変われることを祈る。
まだ、なおカースト制度が深く残るインドの人々の祈りだろうか・・・・
船頭さんの父も、祖父も船頭さん・・・・・他の職業に就く自由はない。
子供の死体が、半焼けで流されている・・・・
沐浴をする人々、洗濯をしている人々・・・同じ川に、死と生が同居している。

その時は、ただただ、船からの眺めにただ愕然としていたものだ。
川辺の右岸には、沐浴をする人々の背後には、ひしめくような建物が川面に映る反面、一方の川辺の左岸には建物が一つもなく、見渡す限りの原野が広がっている。

左は不浄という思想のせいらしい。なので、ご飯は右手で食べ、左手はトイレ時の洗浄となる。

混沌としている街には、像が、牛が、人々と一緒に歩いている、・・・

陸も川も、この煩雑としている国、インド・・・・

今思い起こすと、人間の業がその街に凝縮されているような気がする。

初めての海外旅行、それもひとり旅。 パートナーは「地球の歩き方」のみ・・・ 伊丹から、最初はタイ・バンコクでトランジット。 1泊、バンコクのホテルに泊まって、次の日にインドへ向かう。 旅の試練はその日から訪れる。 空港からのタクシーでホテルに向かっていましたが、一向に着かない。 タクシーの運ちゃんが仕切りに営業をしてくる。 おそらく、「知り合いの飲み屋あるけど、行けへんか?可愛い子いてるよ・・・」って感じ。日本人を見ればそういう営業をすることを聞いていましたので、「ノーサンキュー」と断ったが、ホテルの部屋までついて来られた時は、流石に恐怖を感じた。 次の日、バンコクの空港でインド行きを待っていたら、同世代の日本人と出会い、 色々、この先のことなどを話しながら、彼は「昨日ぼったくられたわ縲怐vって・・・ やっぱ日本人は舐められてるな、と改めて気が引き締まる思いになったものだ。 そして、初めてのインド・・・・・・・ 30年以上前です。今はどうかわからない。 あくまで、私の記憶にインプットされたその時の情景。 空港から降り立って、空港から出た時、、、、、、 喧騒、汚濁、悪臭、むせ返るような熱気・・・・街自体がカオス状態 道路には、物乞いが座っている、ストリートチルドレンや障害を持った人がいる。 「バクシーシ(喜捨)」とボウルのようなものを持って、近寄ってくる。 富める者が貧しい者に施しをすることは当たり前という風潮がそうさせているようだ。 組織的な物乞いもいてると聞かされていたので、ここは、グッと堪えて、気づかないように歩き進む。 象のフンがあちらこちらに落とされている。 とにかく、インドの旅は始まったのだ。 「とりあえず、今日の宿を探そう」 私は、“地球の歩き方”に目を凝らしながら、異国の空気を大きく吸い込んだ。

https://www.arukikata.co.jp/guidebook/series/book/D28

 

教育実習が終わって、少し「先生」への未練を引きづりながらも、イベント業界のアルバイトスタッフをしながら、そのノウハウを吸収すべく、大学生活の残りを過ごしていました。
もちろん、就活もしました。
採用は無理だろうと承知で、大手の広告代理店や在阪のテレビ局の試験は受けました。
結果は言わずもがな、ですが・・・・
そんな時に、声をかけてもらったイベント会社が数社ありました。
当時は、この業界、採用試験なんか無い時代です。
アルバイトして気付いたら「名刺」が出来上がっていて、
「ここが君のデスク、明日からおいで・・・」みたいな感じです。
条件面など聞く間もないくらい、当時は、ブラックな業界でした。
業界的に成熟していなかったと言えるでしょう。
昨今の「働き方改革」なんて言っていたら、会社が持たない時代です。
徹夜は当たり前、会社で寝るのも当たり前、遅刻も当たり前、そんな時代です。
色々、悩みましたが、当時「社長入れても3人」のイベント会社に就職を決めました。
残念ながら、今はもうありませんが、1987年卒業後にお世話になりました。
とは言え、結局その会社には、2年弱しか居ませんでしたが・・・・
ただ、その当時の社長に教えていただいたのは、
「仕事を選ばなければ、石ころをひっくり返せば、その裏には仕事はいくらでもある」
今も、その言葉を思い出します。
事業主になればなおその言葉が重く感じられますし、
断るのは簡単だけども、断らない勇気を持つのは、もっと大変な気がします。
今も、縁があって来る仕事は、よっぽどのことがない限り、基本断らない主義です。
実際に就職先が決またあと、もう長い休みなど取れないことを覚悟してましたので、
就職前の1987年3月、卒業旅行に行くことになります。
そして、なぜか、「インド一人旅」それも初めての海外旅行です。
理由は思い出せません。当時バックパッカーが流行っていたのでしょうか・・・
タイ・バンコクでトランジットをして、コルカタ(カルカッタ)に入り、その後は17日後にニューデリーから出国することだけ決めて、泊まる場所も、行き先もすべて行き当たりばったりの、フリープラン。道先案内は「地球の歩き方」というガイドブックのみ、、、、

 

 

 

1985年の夏の「1000人ツアー」の大失敗後、旅行会社から仕事をいただきながら、その赤字を埋め合わせて行きました。

やはり、モチベーションの低下は計り知れません。いけいけドンドン過ぎた反動です。

結局は「何でもお手伝いセンター」を辞めましたが、イベント業界への未練はありました。その後、それまでお世話になっていたイベント制作の会社にアルバイトスタッフとして、色々仕事をさせていただきました。実践を踏みながらの勉強でもありました。
マニュアルや進行台本の書き方・リスクヘッジのポイント、何を目的としてそれを作るのか、先輩からアドバイスを頂きつつ、手書きで作りながら、そのノウハウを蓄積して行きました。
そのように学びながら、「1,000人ツアー」の開催が、いかに甘いノウハウだったか、大いにその失敗を痛感したものです。

4回生になると、周りは就活のことで騒がしくなります。その当時は、売り手市場で
特に、金融・証券業界は大盛況で、私の友人もそこに向かって面接を受けまくっていました。リクルートから送られてくる会社案内のハガキをこれでもかと送っていました。
しかし、その後バブル崩壊、銀行は統合・再統合と今や当時の銀行の名前すら跡形もありません。証券会社に至っては、本当に泡となり、跡形もありません。
未来予想ができるとしたら、あの就職時の喧騒はなかったろうと思います。
全く、世の中どうなるか、わかりません。
そんな就活喧騒の真っ只中、教員免許取得に必要だったので、私は「教育実習」として母校の教壇に立っていました。

校訓は、誠実・努力・奉仕、今も変わりません。高校時代は器械体操部で3年間、朝昼、夕刻と練習の鬼と化していました。体育系クラブが強かったせいもあります。サッカー部は全国大会にも出ている強豪校でしたし、部活の先生は、元オリンピック選手もいました。そんな思い出深い、母校での教育実習です。あまりいい加減なことはできません。

ただ、
心のどこかに、「教師」はもういいかな・・・って感じで、少しそこへの情熱は薄くなっていた気がします。というのも、やはりイベント業界への未練があった気がします。
「教育実習」では7歳下の高校1年生を受け持ちました。40数人の瞳が自分に向けられる緊張感を今でも思い出します。また、みんなで歌った「HOUND DOGのフォルテシモ」を聞くとその当時の情景が走馬灯のように思い出されます。
それなりに充実した「実習」ではありました。教師はもういいかなっと思っていた私に情熱をくれたのは40数人の生徒たちでした。しかし社会に出たことのない自分が教師になるのは、少し早いのではないか、社会に出てから、教師を目指しても、それは遅い選択ではないだろう、そう結論づけ、結局採用試験は受けませんでした。

決断をするのは、、難しいことです。
「あの時、教師を目指していたら・・」
たられば、はいつの時代にもあります。

今となっては、色々ありましたが、イベント業界でお世話になっていることは、
有難いことだと感謝しております。

1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人縲怩R00人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。

 

 

今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。

高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。

固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。

あるのは、ただそれだけです。

 

インターネットも携帯電話もない時代です。

情報自体に価値があった時代です。

電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。

 

まず、我々がやったのは、

そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。

大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・

20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。

アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。

ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。

4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。

 

 

そして、電話が鳴りました。

「何でもお手伝いセンターです。」

「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。

油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。

なんせ、初めてのミッションです。

私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。

タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。

「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。

今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。

ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。

2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。

効率的と言えば効率的です。

「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。

戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」

とんぼがえりです。

スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。

まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。

最初のミッションから波乱万丈でしたが、
この後、「何でも屋さん」は2年余りの活動期間でしたが、
幕開けは「換気扇洗い・蓋落っこちた事件」から、でした。
何でもお手伝いセンターを始めて、2ケ月くらい経った頃だろうか、1984年・大学2回生の夏休みだったと思います。
イベントの制作会社から、若者を20縲怩R0人手配して欲しいと言う依頼がありました。
その頃は人材派遣会社も一般的ではなかった頃です。パソナがまだテンポラリーセンターと呼ばれていた時代です。
何でもお手伝いセンターは、大学生を中心に若者の集団です。
友人の友人に会員登録してもらって、アルバイトを斡旋する仕組みが出来つつありました。
登録料など不要です。アルバイト斡旋に、ディスコパーティなどを企画していましたので、会員になることを断る理由はありません。当時は、学生主催のスキーツアーや、沖縄ツアーなど学生が主催者として、企業とタイアップしていた時代です。
イベント制作会社からの依頼で、20名ほどの若者を引き連れて行ったのが、奈良公園です。
そこで行われるのが、「高校生クイズ選手権・近畿地区大会」です。
日本テレビ系列がやっている「通称、ウルトラクイズ」の高校生版です。
我々は、そのスタッフとしてお手伝いです。
初めて、そのような現場に行ったので、難しいことはできません。テレビ局のアシスタントディレクターの指示のもと、
我々のミッションは、ロープマンです。
「YESかNOか」クイズ出題のあと、どちらかに出演者の高校生が移動します。その分けるためのロープを持ったスタッフが我々です。経験値は要りません。
しかしながら、出演している高校生の真剣な姿や、その姿をカメラで追いかけるテレビクルーなどを側で見るにつけ、イベントの面白さに、興味を持ったことは確かです。
そして、その後、毎回スタッフとして呼ばれることになります。
ロープマンから、受付スタッフ、そしてフロアーアシスタントディレクターと、徐々に、役割も出世して行きました。
ディレクターさんと一緒にマニュアルを作ることもありました。
そのころは、すべて手書きですが・・・・・・(笑
そのように、「何でもお手伝いセンター」には、実に様々な「助けて」依頼が舞い込んできます。
プレス工場のベルトコンベアのスプレー缶を収納するアルバイト、牛乳配達、オーディコロンのデモ販売、アイドルタレントのミニライブの警備、自転車競技のコースに立つ警備スタッフ、ライブハウスツアーの運転手兼アシスタント、吉本新喜劇の大道具運搬、ラジオ芝居の出演、獅子舞の中に入って踊るなんてこともやりました。
また、同時に、ディスコパーティや、バーベキューパーティ、沖縄ツアーなど「遊びの企画」もやっていました。
その後、イベントの裏方スタッフの面白さを知った僕は、積極的にイベントスタッフの方にシフトして行きました。
暑い夏、台風も近づいて来ています。
海や川、山での行楽は、本当に安全には気をつけて頂きたいものです。
お盆になると、小学校時代「夏休みの宿題の残りをどうするか」焦った記憶があります。
夏休みが始まった頃は、「まだまだ、休みは長い!」って・・・・
翻って、この歳になると、お盆になると「私自身のルーツ」を思います。
先祖からの長い軌跡が、今の自分の家族につながっていると考えると、
「私の祖先」はどんな人で、どんな人生を歩んでいたのだろう・・・・
父は大工、祖父は漁師と実業家、曽祖父は宮大工だったそうで、それ以前はわからないそうだ・・・・
そう考えると、不思議な軌跡は、本当に奇跡が続いているのかも知れない。
お盆くらいは、「祖先」に想いを馳せるのも良いかもしれない。
しかし、小学生の夏休みはなんであれだけ長かったのに、「アッと言う間に終わった」のだろうか・・・
今だったら、「暇で仕方ない」かもしれない。

北海道でのアルバイトが決まって、

大阪からは寝台列車・銀河で東京へ。高校時代の友人と久しぶに上野公園の西郷さんの銅像前で再会。
そして、私は、その夜、またもや寝台列車で上野から青森へ
そして1983年当時は、まだ青函連絡船でしか北海道に渡れませんでした。
函館の港が見えた時は、「北海道にやっと着いた・・・・」と感慨深いものがありました。

函館の街を観光した後は、列車で、豊頃町へ
全国からこのアルバイトに応募していた学生達が10数名いた気がします。
ジンギスカンで歓迎会をしていただき、
その後、それぞれのお世話になる「農家のオヤジさん」に引き取られるように、
三々五々、別れ、長い夏が始まりました。

私がお世話になった農家は、「牧草」を刈り取り、サイロに貯蓄していくことがメインの仕事です。
牛の餌になる牧草を冬季のために保存しておくのです。
何ヘクタールもある牧草地の牧草をトラクターで刈り取り・サイロに運ぶ作業です。
作業は力仕事で、大変でした。やはり夏です、汗だくになりながら、草まみれです。
朝、陽が昇る頃から陽が沈むまでの作業。
しかし、雨が降ると全く作業ができません。
その年は、結構雨の日が多く、そんな時は、オヤジさんが車で北海道巡りに連れて行ってくれました。
襟裳岬、阿寒湖、網走刑務所、など、本当にアルバイトに来ているのに、良いのだろうか・・・と
我々、学生アルバイトがいてるうちに、全ての作業を終える必要があるにも関わらず、です。

やはり、当時から若者は都会へ出てましたので、後継ぎ問題はその頃からの課題だった気がします。
農家には、若い力が必要です。

色々ありましたが、刺激的な1ケ月余の住み込みのアルバイトは19歳の私に貴重な体験をさせてくれました。

青く高い空、どこまでも続く大地は今も尚私の脳裏に焼き付いて離れません。