今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。
高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。
固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。
あるのは、ただそれだけです。
インターネットも携帯電話もない時代です。
情報自体に価値があった時代です。
電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。
まず、我々がやったのは、
そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。
大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・
20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。
アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。
ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。
4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。
そして、電話が鳴りました。
「何でもお手伝いセンターです。」
「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。
油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。
なんせ、初めてのミッションです。
私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。
タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。
「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。
今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。
ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。
2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。
効率的と言えば効率的です。
「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。
戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」
とんぼがえりです。
スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。
まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。
大阪からは寝台列車・銀河で東京へ。高校時代の友人と久しぶに上野公園の西郷さんの銅像前で再会。
そして、私は、その夜、またもや寝台列車で上野から青森へ
そして1983年当時は、まだ青函連絡船でしか北海道に渡れませんでした。
函館の港が見えた時は、「北海道にやっと着いた・・・・」と感慨深いものがありました。
函館の街を観光した後は、列車で、豊頃町へ
全国からこのアルバイトに応募していた学生達が10数名いた気がします。
ジンギスカンで歓迎会をしていただき、
その後、それぞれのお世話になる「農家のオヤジさん」に引き取られるように、
三々五々、別れ、長い夏が始まりました。
私がお世話になった農家は、「牧草」を刈り取り、サイロに貯蓄していくことがメインの仕事です。
牛の餌になる牧草を冬季のために保存しておくのです。
何ヘクタールもある牧草地の牧草をトラクターで刈り取り・サイロに運ぶ作業です。
作業は力仕事で、大変でした。やはり夏です、汗だくになりながら、草まみれです。
朝、陽が昇る頃から陽が沈むまでの作業。
しかし、雨が降ると全く作業ができません。
その年は、結構雨の日が多く、そんな時は、オヤジさんが車で北海道巡りに連れて行ってくれました。
襟裳岬、阿寒湖、網走刑務所、など、本当にアルバイトに来ているのに、良いのだろうか・・・と
我々、学生アルバイトがいてるうちに、全ての作業を終える必要があるにも関わらず、です。
やはり、当時から若者は都会へ出てましたので、後継ぎ問題はその頃からの課題だった気がします。
農家には、若い力が必要です。
色々ありましたが、刺激的な1ケ月余の住み込みのアルバイトは19歳の私に貴重な体験をさせてくれました。
青く高い空、どこまでも続く大地は今も尚私の脳裏に焼き付いて離れません。
一昨日から、秋田に仕事で出張、仕事を終えて 「きりたんぽ鍋」に舌鼓を打って、秋田の地酒が疲れた身体に沁み渡る、つかの間の休息。 地方での仕事の醍醐味の一つは、地元の郷土料理を味わえること。 今ほど、情報が開示されていない20縲怩R0年前は、やはり地元の有志に地元の隠れた名店に連れて行ってもらったものです。逆に、関西に来られる際は、こちらが「関西の名店」を案内します。 互いに“ならではの味”を楽しんでもらうことに心血を注いだものです。 おもてなしの交換が仕事において一体感を醸成します。 些細なことですが、美味しいものを一緒に食することで、繋がる想い。 よく、業界以外の方々から、仕事のエリアを聞かれます、その際は、「全国・全世界です」と答える。 当然、支社があるわけではなく、この業界の特質が一因であるのですが・・・ 「一つのプロジェクト」を一社で創り上げることは不可能な業界。 ある式典を創り上げるには、プロデューサー、演出、舞台監督、音響、照明、映像、特効、舞台美術、運営、進行などなど、それぞれのセクションのスタッフが推進チームを組んで創り上げていく。 関西の現場であろうが、地方の現場であろうが、海外の現場であろうが、そこは変わりません。 それぞれのセクションの連携が一番大切です。 仕事の依頼主・クライアントさんが、何をしたいのか、何を求めているのか、それをどのようにして形作っていくか。 同じ方向を見ながら、一緒に作っていけるスタッフかどうか、がとても重要なキーとなります。 寝食をともにすることも、大事な要素です。飲み過ぎは良くないですが・・・・・笑
最近始めたインターネットラジオのパーソナリティ、 コンセプトは「裏方さんをフィーチャー」すること、、、、 イベントという、ともすれば派手で華やかな仕事を、影で支えているスタッフがどれだけいてるかを少しでも知って頂きたい。 そんな想いで今年の2月から始めて、7月で10人のゲストの方に出演いただき、拙い私のパーソナリティにお付き合いいただきました。 そして、それぞれのゲストの方々の軌跡をお伺いするにあたって、本当に「人に歴史あり」を感じます。 30分でどこまで、その方々の個性を表現していただいたかは、わかりませんが、本当に、おひとりおひとりの人生の軌跡を垣間見たような気がします。またこれからの活躍を期待したいと思います。 そして、まだゲストにお呼びできていない素敵な方々がいらしゃいます。 そんなそれぞれの世界で頑張っていらっしゃる人々をこれからは繋いでいけたらいいな、と考えます。 少子高齢化、インバウンド、介護のこと、人手不足、AIなどロボット世界の到来、自然災害における減災・防災対策など・・・・我々の生きている時代は常に変化し、変貌しています。 人間が仕切っているようで、それは間違いで目に見えない大きな力が我々をいつも試しているのではないか、そう思います。 だからこそ、一人一人のノウハウの連携が必要な気がします。 また、異業種の連携が新たなものを生み出すような気がします。 テーマに沿ってそのソリューション策を考える。視点が違えば、見え方も発想も今までにないところから生まれてくるのではないでしょうか・・・ 十人十色、10人集まれば、それぞれの発想があるはず、その発想を加減乗除することで生まれる新たな知恵。 最近、そんな素敵な人々の想いを知るにつれ、これから先何かできることはないだろうかを考えます。
初めての雨に降られたにもかかわらず、最後までカッパを着て、また傘を差して、残っていただいたお客さんには、感謝しかありません。
毎年、基本、実行委員会が、ほぼ1年かけて企画を考えます。
実行委員として、構成内容、収支予想、動員方法など、
プロモーションイベントと違って、クライアントがいない。
従って、協賛、協力、後援を自分たちで集める必要があります。
助成金へのチャレンジもします。
実に様々な方々の力が結集しています。
もちろん、発起人のkogakusyu翔のメンバーは自分たちの活動の合間をぬって、出演者の発掘、交渉など、そしてその後は、出演に際しての合同練習など、本当に、華やかなステージでの演奏だけではなく、実に年間通じて休む間も無く、裏方としても、動いています。
6回続けていることの意味を考えます。
プロモーションイベントは、クライアント(スポンサー)が辞めると言えばなくなります。
当然、プロモーション活動なので、その予算に合った効果がないと、選択肢としては仕方ない面があります。イベントを販促方法の手段とする限り仕方ないことです。
一方、「ユメハネ」はクライアントがいません。協賛頂いている企業さんもありますが、販促目的というよりも、「このイベントの趣旨」に賛同いただいてエールをおくっていただいている感じでしょうか・・・・
正直な話、今後も「エールをおくって頂ける企業さん」が増えると助かります。
本当に、6回続けることは大変なことです。
時間的な制約、経費的な制約など、、、
しかし、クライアントがいないということは、我々の想い、そして参加いただいた学生さん、ゲスト、そして来場いただいたお客さんの想いが一番と言えます。
少しずつ、知名度も上がってきてます、「継続は力なり」と言います。
少しずつ、力を頂いていることも確かです。
平成から、令和へと時代が移り、新たな時代が始まります。
心の時代、その心に刻めるイベントを今後も作っていきたいものです。
改めて、ゲストの方々、学生のみんな、裏方で頑張ってくれた学生さん、プロのテクニカルスタッフの方々、そして雨予報に関わらず、多くの来場者の皆様に感謝をしたいと思います。
35年前、バブル景気前から、この業界でお世話になっている。
思えば、まだ業界としても成熟しているとは言えず、給与体系や労働環境など、
今から思えばブラック業界もいいとこで、本当に会社自体もそうだし、
そこで働いている人もどっちもどっちで、好き放題していた気がする。
それでも時代の要請なのか、バブル経済突入とともに、博覧会ブームが到来し、日本各地でJAPAN EXPOが開催されイベント業界も徐々に世間の常識にとらわれざる得なくなる。
当たり前のことを当たり前にできていない業界が、少しずつ整備されて行き、社会の居場所が少しずつ広がっていったと言える。
先日、「イベント業務管理士1級」の試験があり、今更ながらチャレンジして、なんとか合格。
この歳になっての「試験」は、なかなか勉強時間のやりくりや、覚えることの難しさに苦労した。
長年、この業界にいるからと言って、「その試験」はまた違ったアプローチが必要で、記述式&小論文だけにいい加減な気持ちでは難しかったと言える。
久々に追い詰められた試験であったことは確かだ。
とは言え、今までの経験をロジカルに整理し直すには、非常に役に立ったし、これからもイベントを科学していくことは重要なことではないだろうか・・・
イベントと一言で言ってもその概念を理解している人々は稀であろう。
個人のバーベキューから、町の抽選会・・・・・ひいては、万博博覧会・オリンピック全てイベントというカテゴリーに区分けされるだろう。
イベントの概念的な定義とは、
「イベントとは、何らかの目的を達成するための手段として行う行・催事である。」
今までは、ある意味、勘と経験で創ってきたイベントを「イベント業務管理士」的視点で考察すると、
その論理性が非常に重要になってくる。
イベントを構造的に考察していくと、
一過性であり、仮設であり、また複雑性があり、自己実現性があるもので、
4大管理と呼ばれる、安全管理、工程管理、品質管理、原価管理をしっかりと管理業務として捉える必要がある。
イベント業界を広く社会的に認知させ、その功績をもっと広く深く理解していただくためには、
その業務の奥深さ、幅広さを論理的に訴求する必要があるのだろう。
裏方業務でありながら、その重要性そして責任性は、年々高まってきている。
勘と経験だけでは、説得できないであろう。
やはり、そこには、ロジカルな説得性が重要と考える。
そのためにも、「イベント業務管理士1級」という存在は、ある意味必要なのであろう。