Monthly Archives: 9月 2019

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1985年の夏の「1000人ツアー」の大失敗後、旅行会社から仕事をいただきながら、その赤字を埋め合わせて行きました。

やはり、モチベーションの低下は計り知れません。いけいけドンドン過ぎた反動です。

結局は「何でもお手伝いセンター」を辞めましたが、イベント業界への未練はありました。その後、それまでお世話になっていたイベント制作の会社にアルバイトスタッフとして、色々仕事をさせていただきました。実践を踏みながらの勉強でもありました。
マニュアルや進行台本の書き方・リスクヘッジのポイント、何を目的としてそれを作るのか、先輩からアドバイスを頂きつつ、手書きで作りながら、そのノウハウを蓄積して行きました。
そのように学びながら、「1,000人ツアー」の開催が、いかに甘いノウハウだったか、大いにその失敗を痛感したものです。

4回生になると、周りは就活のことで騒がしくなります。その当時は、売り手市場で
特に、金融・証券業界は大盛況で、私の友人もそこに向かって面接を受けまくっていました。リクルートから送られてくる会社案内のハガキをこれでもかと送っていました。
しかし、その後バブル崩壊、銀行は統合・再統合と今や当時の銀行の名前すら跡形もありません。証券会社に至っては、本当に泡となり、跡形もありません。
未来予想ができるとしたら、あの就職時の喧騒はなかったろうと思います。
全く、世の中どうなるか、わかりません。
そんな就活喧騒の真っ只中、教員免許取得に必要だったので、私は「教育実習」として母校の教壇に立っていました。

校訓は、誠実・努力・奉仕、今も変わりません。高校時代は器械体操部で3年間、朝昼、夕刻と練習の鬼と化していました。体育系クラブが強かったせいもあります。サッカー部は全国大会にも出ている強豪校でしたし、部活の先生は、元オリンピック選手もいました。そんな思い出深い、母校での教育実習です。あまりいい加減なことはできません。

ただ、
心のどこかに、「教師」はもういいかな・・・って感じで、少しそこへの情熱は薄くなっていた気がします。というのも、やはりイベント業界への未練があった気がします。
「教育実習」では7歳下の高校1年生を受け持ちました。40数人の瞳が自分に向けられる緊張感を今でも思い出します。また、みんなで歌った「HOUND DOGのフォルテシモ」を聞くとその当時の情景が走馬灯のように思い出されます。
それなりに充実した「実習」ではありました。教師はもういいかなっと思っていた私に情熱をくれたのは40数人の生徒たちでした。しかし社会に出たことのない自分が教師になるのは、少し早いのではないか、社会に出てから、教師を目指しても、それは遅い選択ではないだろう、そう結論づけ、結局採用試験は受けませんでした。

決断をするのは、、難しいことです。
「あの時、教師を目指していたら・・」
たられば、はいつの時代にもあります。

今となっては、色々ありましたが、イベント業界でお世話になっていることは、
有難いことだと感謝しております。

1985年夏、我々「何でもお手伝いセンター」主催の「1000人ツアー」を企画しました。
当時、開催されていた淡路島「くにうみの祭典」見学をメインに、船を宿泊先とした、1泊2日のツアーです。
船は、確か「あいぼり丸」だったと記憶しております。
1500名は乗船できたのではないでしょうか・・・・
我々何でもお手伝いセンタースタッフは、200人縲怩R00人の動員も簡単にしておりましたので、その動員力に目をつけられたのか、「あいぼり丸が安価で借りられるので、くにうみの祭典ツアーを企画して、やってみないか」と誘われました。
大手の旅行会社も乗り気だったようです。
我々のミッションは、人集めとイベント企画です。
その話が持ち込まれたのは、1985年の春先だったと思います。
そのあたりの記憶は、飛んでいますので、定かではありません。
ただ、「やる!やらない!」の思いが我々スタッフの中にあったのは確かです。揺れていました。
なんせ1000人です。
結局、今思えば「若さ」だったのでしょう・・・・
そして、自惚れていたのでしょう、“1000人は無理でも、500人くらいは行けるやろ”
その甘えが、「やる!」という決断を導いてしまいました。
結果は、無残なものです。
スタッフは100人以上いるのに、お客さんはそれより少なく、オプション企画も企画倒れ・・・・
お客さんに慰められる始末です。
結論的には「大赤字」です。
その後、旅行会社の好意によって、仕事をいただきながら、「赤字」を減らしていきました。
その時に、思ったのは、
一つには、動員力はあくまで「アルバイト」としての動員であり、「お客さん」としての動員力ではなかったということ。
そして、何はともあれイベントを企画するにあたっての基本的な知識が無かったということ、スケジュール管理、コスト管理、安全管理、マニュアルひとつ作れていない、チラシと口コミで1000人は集まらない。
何よりも、「このイベントの魅力を訴求できたのか、お客さんの喜ぶイベントだったのか」・・・・
目的があやふやだったと思います。
それまでの成功事例を考えると、学生という人的パワーだけであり、ビジネスという土俵ではまだまだノウハウがなっていなかった、ということです。
このイベントの挫折は我々に大きな傷跡を残しました。
誰が悪いということではなく、「力不足」ということです。
ノウハウのない、勢いだけでは何も動かないことを思い知らされました。
私は、このイベントが終わって、何でもお手伝いセンターを辞任しました。
自分自身にノウハウがない限りこの先は無いと悟ったからです。
このイベントの失敗は、今でも「あらゆる面において」私の原点になっています。
大学2年生から3年生、私は、浪人生活を経てますので。20歳21歳のまさしく、“世間的には大人”になる年齢です。
しかしながら、まだその感覚は全くなく、いわゆる青春時代を謳歌していました。
何でもお手伝いセンターという、「依頼があれば、法律に触れること以外は基本やります」という姿勢でしたので、「?」と思うような依頼も多々ありました。
見も知らぬ人の披露宴で「盛り上げるアトラクションを何かして欲しい」・・・・・
結局、一世風靡セピアの「前略、道の上より」を褌締めてやったこと。
バク宙をやって盛り上がったのを思い出します。
他には、当時吉本花月が、梅田・難波・京都とあり、新喜劇の出し物が順番に各花月でありましたので、
その出し物の大道具(机、椅子、植木など)や小道具を次の花月へ運んだものです。
吉本新喜劇は何度も無くなりそうな憂き目にあっていましたので、予算も限られたんでしょうか・・・
「新喜劇の大道具」の運搬は思い出深い仕事の一つです。
中には、いわゆる美味しい仕事もありました。
その頃、大鳴門橋が開通し、淡路島が結構注目されていました。なので、ペンションなどもたくさんあり、大阪・神戸・京都から、若い観光客を呼び込もうと結構取材があったそうです。
ある新聞社の『淡路島のペンション体験紹介コーナー』に「仕事」で参加させて頂きました。
美味しい料理を食べて、温泉に入って、素敵な部屋で過ごす「仕事」です。我々がモデルです。
今尚、あの取材は本当に良かったのかどうかは、不明ですが・・・・
当時、そんな「淡路島」で開催されていたのが、『くにうみの祭典』(1985年4月21日縲鰀8月31日)です。
淡路島は関西人にとっては、近くでありながら、夏場はなかなか行けない島でした。
夏休みは、フェリーで何十時間待ちが当たり前の状態でした。
なので、大鳴門橋が開通したとは言え、大阪からはやはり船です。
この時期は、船で行く「くにうみの祭典」ということで、船上ラジオ公開放送など、実に様々なイベントを船を活用し開催されていました。
我々は、スタッフとして、参加させていただきました。
その後、瀬戸大橋、明石海峡大橋、しまなみ海道など、橋が完成するごとに、博覧会が開催されていきます。
JAPAN EXPOなど世はバブルとともに博覧会ブームが到来していきます。
我々も、それが大きな荒波だと気づかずに、巻き込まれていきます。

 

 

今までも、何度も、書いていますが、大学2年の初夏に「何でも屋さん」を友人たちと共同経営し始めました。

高校時代の友人から声掛けされて、連れて行かれたのが、武庫之荘駅近くのワンルームマンションです。

固定電話を引いただけの事務所を設け、「なんでもお手伝い!困ったことがあれば、お電話を!」と書いたA5サイズのチラシ。

あるのは、ただそれだけです。

 

インターネットも携帯電話もない時代です。

情報自体に価値があった時代です。

電電公社発行(現NTT)イエローページが情報を得る唯一の手段だった頃です。

 

まず、我々がやったのは、

そのA5サイズのチラシを、近くのマンションやアパートにポスティングをすることです。

大学の友人・知人にも手伝ってもらいました。その頃は、まだサークル的な感じだったでしょうか・・・

20歳前後の若者たちが、「なんかおもろい事ないか」と刺激を求めてた世代です。

アルバイト代も払わないのに、「なんかオモロそうや」という感覚で集まっていた気がします。

ポスティングが終わったら、ひたすら固定電話の前で待つのみです。

4~5人の若者が、ワンルームで膝付き合わせて、鳴るとも鳴らないともわからない電話を見つめていました。

 

 

そして、電話が鳴りました。

「何でもお手伝いセンターです。」

「換気扇を洗って欲しいんだけど・・・・」初めての依頼は、尼崎の場末のスナックの換気扇洗いです。

油まみれの換気扇を、そのスナックのママでは洗えないので、洗って欲しいとのことです。

なんせ、初めてのミッションです。

私と友人は、まず洗剤とタワシ、ウエスなど、換気扇洗いのための道具の調達から始めなければなりません。

タワシやウエスはカー用品で車に常備してましたので、「洗剤」だけを購入しに、DIYセンターに行きました。

「日本の洗剤より、海外の方がキレイになると思われるで・・・」なんの根拠もありませんが、見たこともない洗剤の方が、何でも屋っぽいということで、それを持ってスナックに行きました。

今だから言えますが、換気扇洗いなど私も友人もしたことがありません。

ただ、天井の換気扇を取り外して、必死にその洗剤で洗っただけです。

2時間近く、その作業をし終えて、2人で10,000円くらいだったでしょうか。時給2、500円です。

効率的と言えば効率的です。

「ありがとうございました!」声も高らかに、充実した仕事を終えて事務所に戻りました。

戻ってすぐに、留守番のスタッフから、「さっきのスナックから電話あって、なんや知らんけど換気扇の蓋が落ちてきたから、すぐに取り付けて欲しいってえらい怒ってはったで・・・・・・」

とんぼがえりです。

スナックのママから、散々文句言われましたが、なんとか元どおりにして、一件落着。

まぁ、原価引いたら、8割の収益、8,000円です。

最初のミッションから波乱万丈でしたが、
この後、「何でも屋さん」は2年余りの活動期間でしたが、
幕開けは「換気扇洗い・蓋落っこちた事件」から、でした。